・・・日が傾きはじめると寒さは一入に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇な頭の中の一段高い所とも覚しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・が重大で誠意が熱烈で従って緊張が強度であればあるほどに、それを無事に過ごしたあとの長閑さもまた一入でわれわれの想像出来ないものがあるであろうと思いながら、夕刊第二頁をあけると、そこには、教育界の腐敗、校長の涜職事件や東京市会と某会社をめぐる・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・荷葉半ば枯れなんとして見る影もなきが一入秋草の色に映りて面白し。春夏の花木もあれども目に入らず。しのぶ塚と云うを見ているうち我を呼びかける者あり。ふりかえれば森田の母子と田中君なり。連れ立って更に園をめぐる。草花に処々釣り下げたる短冊既に面・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・更に滑稽なことは咲枝さんも心臓の為にそれを注射されていて、ウワバミ元気にあてられる度も一入であったのでしょうが、しかしこの人の方は腰の痛いのがましだという結果に現われて、私のように悲しき女人足にはならなくてすんだのです。 こういう薬のこ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・予と相交り相語る人は少いながら、一入親しい。予はめさまし草を以て、相更らず公衆に対しても語って居る。折々はまた名を署せずに、もしくは人の知らぬ名を署して新聞紙を借ることもある。今予に耳を借す公衆は、不思議にも柵草紙の時代に比して大差はない。・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫