・・・その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞して、大量的殺人現象が発生するのである。 しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心とによって善導されればそれによって国難を救い戦・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・洲崎の灯影長うして江水漣れんい清く、電燈煌として列車長きプラットフォームに入れば吐き出す人波。下駄の音靴のひゞき。 寺田寅彦 「東上記」
・・・と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋の上に塊まって茶・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・探偵だって家へ帰れば妻もあり、子もあり、隣近所の付合は人並にしている。まるで道徳的観念に欠乏した動物ではない。たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の一鉢くらい眺める風流心はあるかも知れない。しかしながら探偵が探偵として職務にかかったら、た・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・刑法上、その行為の責任を負うに耐えないものとなっている事は、精神異常者その他人並の分別を一時的にしろ喪った者となっている。女子が、神経の弱い、社会的因襲による無智から常規を逸しやすいものとして、結論に当っていくらかの斟酌を加えられる場合は決・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・お前だって人並みに学校へだってやれるんだのに……こうやって母子二人で食べるものを食べずに稼いだところで、この不景気じゃ綿入れ一つ着られやしない」 一太は困ったのと馴れているのとで別に返事をしなかった。「私ほど考えれば考えるほど不運な・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ ぐずぐずして居ると突飛ばされる、早い足なみの人波に押されて広場へ出ると、首をひょいとかたむけて、栄蔵の顔をのぞき込みながら、揉手をして勧める車夫の車に一銭も値切らずに乗った。 法外な値だとは知りながら、すっかり勝手の違った東京の中・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ トゥウェルフスカヤの広い通りをプラウダ社のある方へ人波に混ってゆるやかな坂を登っているうちに、私は一つの明瞭な苦痛の感じにとらえられ、自分の歩いていることが分らないような心持になって来た。今この通りを右にも左にも前にも後にも陸続として・・・ 宮本百合子 「坂」
・・・ 小刻みに上下に揺れ揺れ流れ動く人波の上に、此処からでも、婦人帽の白い羽毛飾が見えた。黒繻子の頂や縁も。 然しそれは、鋪道一体の流れに沿うて前か後に進みきる様子はなく、距離にしたら五六間もない空間で、前後左右に漂っている。 渦に・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・足にギプスをはめた小学三年ぐらいの少年が一人いてよく出会うのだが、朝のこんな人波その中のギプス姿は、私をいろいろの回想に誘うこともある。今はまるで壮健で子供の親になっている弟も五つ六つの頃はギプスをはめて歩いていたりしたのであったから。・・・ 宮本百合子 「新入生」
出典:青空文庫