・・・ かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るように、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる広野の中をタタタタと蹄の音響。 蹄を流れて雲が漲る。…… 身を投じた紫・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・徳二郎は堤をおり、橋の下につないである小舟のもやいを解いて、ひらりと乗ると、今まで静まりかえっていた水面がにわかに波紋を起こす。徳二郎は、「坊様早く早く!」と僕を促しながら櫓を立てた。 僕の飛び乗るが早いか、小舟は入り江のほうへと下・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行っ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台ともつかないような入口の作りつけられている家の前で、ウォルコフは、ひらりと身がるく馬からおりた。 人々は、眠から覚めたところだった。白い粘土で塗りかためられた煙突からは、紫色の煙が薄く、かすかに立・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・郵便という声も陽気に軽やかに、幾個かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻えして去った。 無事平和の春の日に友人の音信を受取るということは、感じのよい事の一である。たとえば、その書簡の封を開くと、その中からは意外な悲しいこと・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・動きはじめたボートに、ひらりと父が飛び乗った。「光栄です。」と勝治が言って、ピチャとオールで水面をたたいた。すっとボートが岸をはなれた。また、ピチャとオールの音。舟はするする滑って、そのまま小島の陰の暗闇に吸い込まれて行った。トトサン、・・・ 太宰治 「花火」
・・・家人のすきを覗っては、ひらりと身をひるがえして裏門から脱出する。すたすた二、三丁歩いて、うしろを振り返り、家人が誰もついて来ないという事を見とどけてから、懐中より鳥打帽をひょいと取出して、あみだにかぶるのである。派手な格子縞の鳥打帽であるが・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消えるような機微の現象を発見することは不可能である。それには心に私がなく、言わば「心の手・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥はすでに留り木の上で方向を換えていた。しきりに首を左右に傾ける。傾けかけた首をふと持ち直して、心持前へ伸したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向うの留り木の真中あたりに具合よく落ちた。ち・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・とウィリアムは我とはなしに鬣を握りてひらりと高き脊に跨がる。足乗せぬ鐙は手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄被る剛き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共に空を行く。 ウィリアム・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫