・・・ 四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄』の一書を著した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢い空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・道徳もなければ美感もない。荘厳の理想などは固よりない。いかなる、うつくしいものを見ても、いかなる善に対しても、またいかなる崇高な場合に際してもいっこう感ずる事ができない。できれば探偵なんかする気になれるものではありません。探偵ができるのは人・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・しかしそれは文学上の美感が単に感情の上に立って居って決して理窟を入れないという所から、信仰というものも少し方角は違うがやはりそんなのであるまいかと、推し及ぼしただけの話しであって、今にまだ耶蘇教とか仏教とかの信者になる事は出来ない。それなら・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・質実な美感の深さ、そこにある抒情性のゆたかさというようなものは、人間の心にたたえられる情感のうちでも高いものの一つである。 あの人たちは、今これ迄とはちがって一体にしずんだ色や線のなかにとけこんでしまったが、そうやって一応もとの自分を消・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・現代において社会主義の社会と文学とは、新しい美感の母胎である。 作者は一九三〇年の十一月に日本へ帰って来た。じき、当時のナップに加盟していた日本プロレタリア作家同盟に参加した。そして精力的にソヴェトの社会生活の見学記、文化・文学活動の報・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第九巻)」
・・・社会的には全く複雑な要因に立つ異性の間の友情が、いたるところで一見まことに単純自然な花々を開かせているという気持よい人間的美観は、私たちの気短かい期待でいきなり明日に求めても無理で、個人と社会とのそこに到ろうとする着実な一歩一歩のうちに実現・・・ 宮本百合子 「異性の間の友情」
・・・ ヴォルフのカメラはまるで美感と温さとをもった生きもののようで、独特の生命に流動しながら、対象の極めて自然な、しかも性格的なモメントをとらえている。最高の機械と技術とが駆使されていることは明らかなのだが、ヴォルフの製作の一つ一つの態度は・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
・・・わたしたちの理論が情熱の美感と一致するとき――実感の新しい誕生によってこそ、わたしたちのささやかな存在も人類のよろこびの小さい花となります。又しても「世帯」の本能性と盲目性は、この詩集のどこにもないと思い、そのことに本質的な期待を感じます。・・・ 宮本百合子 「鉛筆の詩人へ」
・・・以下三十篇ちかい歴史的素材の小説も、やはり歴史小説でないことでは芥川の扱いかたに似ているが、芥川龍之介が知的懐疑、芸術至上の精神、美感、人生的哀感の表現として過去に題材を求めたのとは異って、菊池寛は、自身が日常に感じる生活への判断をテーマと・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・それを、作者は小説のなかでもくりかえし云われているとおりな自身の情緒のシステムにしたがって組立て、芸術の美感とは畢竟描かれた世界の中にあるという立てまえによって、一箇の幻想世界をつくりあげているのである。 この作品を、心理主義の描写とい・・・ 宮本百合子 「観念性と抒情性」
出典:青空文庫