・・・―― 青年たちはこういうふうに娘たちを、美と善との靄のなかにつつんで心に描くことは少しも甘いことではなく、むしろ健やかなことである。のみならず賢いことでさえある。古来幾多のすぐれたる賢者たちがその青春において、そうした見方をしたであろう・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ も一ツ古い談をしようか、これは明末の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人や骨董屋の種の性格風ふうぼうがおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものである・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・首筋を明るいところまでくると、ちょっと迷ったとでもいうふうに方向をかえて、襦袢の襟に移った。それから襟の一番頂上まで来ると、また立ち止まった。その時女が箸を机の上におくと今虱が這いでてきたところが、かゆいらしく、顎を胸にひいて、後首をのばし・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ 次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯・・・ 島崎藤村 「嵐」
一 貧乏な百姓の夫婦がいました。二人は子どもがたくさんあって、苦しいところへ、また一人、男の子が生れました。 けれども、そんなふうに家がひどく貧乏だものですから、人がいやがって、だれもその子の名附親・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・おばあさんはこんなふうで、魔術でも使える気でいるとたいくつをしませんでした。そればかりではありません。この窓ガラスにはもう一つ変わった所があって、ガラスのきざみ具合で見るものを大きくも小さくもする事ができるようになっておりました。だからもし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「きょうは、ちょっと、ふうがわりの主人公を出してみたいのだが。」「老人がいいな。」次女は、卓の上に頬杖ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障な形で、「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・支那人はしかたがないというふうでウオーウオーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。 頭脳がぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の腓のところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつき・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・現に生きて活動している文人にゆかりのある家をこういうふうにしてあたかも古人の遺跡のように仕立ててあるのもやはりちょっと珍しいような気がする。 天守台跡に上っているとどこかでからすの鳴いているのが「アベバ、アベバ」と聞こえる。こういうから・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・と、彼はそれをどういうふうに言い現わしていいか解らないという調子であった。 が、とにかく彼らは条件なしの幸福児ということはできないのかもしれなかった。 私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する憐愍を感じないわけにはいかなかった。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫