・・・総ての不治の創の通りに、恋愛の創も死ななくては癒えません。それはどの恋愛でも傷けられると、恋愛の神が侮辱せられて、その報いに犠牲を求めるからでございます。決闘の結果は予期とは相違していましたが、兎に角わたくしは自分の恋愛を相手に渡すのに、身・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・から抑制して、なむ誠実なくては叶うまいと伏眼になって小さく片隅に坐り、先輩の顔色ばかりを伺って、おとなしい素直な、いい子という事になって、せっせとお手本の四君子やら、ほてい様やら、朝日に鶴、田子の浦の富士などを勉強いたし、まだまだ私は駄目で・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・「あれは、岩木山だ。富士山に似ているっていうので、津軽富士。」私は苦笑しながら説明していた。なんの情熱も無い。「こっちの低い山脈は、ぼんじゅ山脈というのだ。あれが馬禿山だ。」実に、投げやりな、いい加減な説明だった。 ここがわしの生れ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」 私は、先刻から、たまらなかった。「ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。」不気嫌に・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・なにをするにも、ふじゆうなやら、おやごに気がねるやら。このやうな、わるいことなら、なぜ、ここへ来たかとおもわるる。けいこわ、かたてまの、あそびにあらず。さむさ、きびしく、あしを、いたむ。○同十八日。あそんだ。○同十九日。いではら九一・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・それから計算してみると、大垣から見た山頂の仰角は、相当に大きく、たとえば、江の島から富士を見るよりは少し大きいくらいである。従って大垣道から見て、この山はかなり顕著な目標物でなければならない。もっとも伊吹以北の峰つづきには、やはり千メートル・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
・・・たとえば富岳三十六景の三島を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状になっていなければならないかは、これに並行した木の枝や雲の頭や崖を見れば合点される。そこにはやはり大きな基調の統一がある。 しかしなめらかな毛髪や顔や肉体の輪郭を基調と・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・しかし一方ではまた彼が不治の病気を自覚して死に所を求めていたに過ぎないのだと言い、あるいは一種の気違いの所業だとして簡単に解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安く踏もうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そ・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・これはたしかに単調で重苦しい学校の空気をかき乱して、どこかのすきまから新鮮な風が不時に吹き込んで来たようなものであった。生徒の喜んだことはいうまでもない。おもしろいものが見られ聞かれてその上に午後の課業が休みになるのだから、文学士と蓄音機と・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫