・・・標題には浮世心理講義録有耶無耶道人著とかいてある。「何だか長い名だ、とにかく食道楽じゃねえ。鎌さん一体これゃ何の本だい」と余の耳に髪剃を入れてぐるぐる廻転させている職人に聞く。「何だか、訳の分らないような、とぼけた事が書いてある本だ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・彼らは固より不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。しかし耶蘇教の神様も存外半間なもので、こういう時にちょっと人を助けてやる事を知らない。そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・が連盟して、ただ一つの「不正なる軍国主義的国家」を、やっつけている、船舶好況時代であったから、彼女は立ち上ったのだった。 彼女は、資本主義のアルコールで元気をつけて歩き出した。 こんな風だったから、瀬戸内海などを航行する時、後ろから・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ドンコほど夫婦愛が深く、また、父性愛の強いものはない。産卵期になるといつもアベックだが、卵を産んでしまうと、雌はどこかへ行ってしまう。あとを守るのは雄だ。卵のところを離れず、いつもヒレを動かしながら、水をきれいに交流させる。外敵が来ると、こ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・ 十 午時過ぎて二三時、昨夜の垢を流浄て、今夜の玉と磨くべき湯の時刻にもなッた。 おのおの思い思いのめかし道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人が陣取ッていた。 浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・元来品行の正邪は本人の性質に由り時の事情に由り教育の方法にも由ることなれども、就中これを不正に導くものは家風に在りと断言して可なり。幼少の時より不整頓不始末なる家風の中に眠食し、厳父は唯厳なるのみにして能く人を叱咤しながら、其一身は則ち醜行・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ ゆえに、貿易に不正あれば、商人の恥辱なり、これによりて利を失えば、その愚なり。学芸の上達せざるは、学者の不外聞なり、工業の拙なるは、職人の不調法なり。智力発達せずして品行の賤しきは、士君子の罪というべし。昔日鎖国の世なれば、これらの諸・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・まして日本の如き、その文明の実価はともかくも、西洋流の文明についてはすべて不案内なるこの人民に向い、高尚なる学校教場の知見を丸出しにして実地の用に適せしめんとするも、浮世のように行わるべからざるは明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・しかも田舎にて昔なれば藩士の律儀なる者か、今なれば豪家の秘蔵息子にして、生来浮世の空気に触るること少なき者に限るが如し。これらの例をかぞうれば枚挙にいとまあらず。あまねく人の知るところにして、いずれも皆人生奇異を好みて明識を失うの事実を証す・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・いわんや父母の言行ともに不正なるをや。いかでその子の人たるを望むべき。孤子よりもなお不幸というべし。 あるいは父母の性質正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。こは罪なき・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
出典:青空文庫