・・・それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅ばかし並んでいるような閑静な通りであった。無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のよう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 紅潮した身体には細い血管までがうっすら膨れあがっていました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したようにおどけた表情で歪ませて見ました。 Hysterica P・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・『昨日はあのいい天気だからいつものように出かけて例の森、僕はまだあそこは画いたことがないからどうせろくなものはできまいが、一ツ試みて見ようと、いつもの細い径を例のごとく空想にふけりながら歩いた。実は――もう白状してもいいから言うが――実・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・独楽に磨きをかけ、買った時には、細い針金のような心棒だったのを三寸釘に挿しかえた。その方がよく廻って勝負をすると強いのだ。もう十二三年も前に使っていたものだが、ひびきも入っていず、黒光りがして、重く如何にも木質が堅そうだった。油をしませたり・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・と慄えた細い声で感謝した。 その夜若崎は、「もう失敗しても悔いない。おれは昔の怜悧者ではない。おれは明治の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟は認めて下さることを疑わない」と、安心立命の一境地に立って心中に叫んだ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。「だれだい、この線は。」 と聞いてみると、末子のがあり、下女のお徳のがある。いつぞ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・顔が、不思議なくらい美しく、そのころ姉たちが読んでいた少女雑誌に、フキヤ・コウジとかいう人の画いた、眼の大きい、からだの細い少女の口絵が毎月出ていましたけれど、兄の顔は、あの少女の顔にそっくりで、私は時々ぼんやり、その兄の顔を眺めていて、ね・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・人の影はあたりを見まわしてもないが、青い細い炊煙は糸のように淋しく立ちがる。 夕日は物の影をすべて長く曳くようになった。高粱の高い影は二間幅の広い路を蔽って、さらに向こう側の高粱の上に蔽い重なった。路傍の小さな草の影もおびただしく長く、・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・撚りをかけながら左の手を引き退けて行くと、見る見る指頭につまんだ綿の棒の先から細い糸が発生し延びて行く、左の手を伸ばされるだけ伸ばしたところでその手をあげて今できあがっただけの糸を紡錘に通した竹管に巻き取る、そうしておいて再び左手を下げて糸・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ 一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖に花をつけているのを見た。また今年の春には谷中瑞輪寺に杉本樗園の墓を尋ねた時、門内の桜は既に・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫