・・・「その頃の彼の手紙は、今でも私の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養に失敗した・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・すると十円を返すためにはこの十円札を保存しなければならぬ。この十円札を保存するためには、――保吉は薄暗い二等客車の隅に発車の笛を待ちながら、今朝よりも一層痛切に六十何銭かのばら銭に交った一枚の十円札を考えつづけた。 今朝よりも一層痛切に・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・奥州筋近来の凶作にこの寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ僧も不住、明寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟のすみかというも余あり。この寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあ・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「御本尊のいらっしゃる、堂、祠へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 梅雨期のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿を帯びていたのに、年数も経ったり、今は皺目がえみ割れて乾燥いで、さながら乾物にして保存されたと思うまで、色合、恰好、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪せた鼠の半外套の袖に引着けた・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 一ツ狭い間を措いた、障子の裡には、燈があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映したが、御本尊の前にはこの雇和尚ただ一人。もう腰衣ばかり袈裟もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立っ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍に、硯箱を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜えたのを是・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。 椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の貼交ぜ屏風一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきも・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・『魯文珍報』は黎明期の雑誌文学中、較や特色があるからマダシモだが、『親釜集』が保存されてるに到っては驚いてしまった。 一と頃江戸図や武鑑を集めていた事があった。本郷の永盛の店頭に軍服姿の鴎外を能く見掛けるという噂を聞いた事もある。その頃・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫