・・・年とったもう一人の支那人も帳簿へ何か書きかけたまま、茫然と半三郎を眺めている。「どうしましょう? 人違いですが。」「困る。実に困る。第一革命以来一度もないことだ。」 年とった支那人は怒ったと見え、ぶるぶる手のペンを震わせている。・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ やっと縄を離れたおぎんは、茫然としばらく佇んでいた。が、孫七やおすみを見ると、急にその前へ跪きながら、何も云わずに涙を流した。孫七はやはり眼を閉じている。おすみも顔をそむけたまま、おぎんの方は見ようともしない。「お父様、お母様、ど・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ 李は、話の腰を折られたまま、呆然として、ただ、道士の顔を見つめていた。――やっとこう云う反省が起って来たのは、暫くの間とうもくして、黙っていた後の事である。が、その反省は、すぐにまた老道士の次の話によって、打壊された。「千鎰や二千鎰で・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・仁右衛門は惘然したまま、不思議相な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外はなかった。 獣医の心得もある蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・薄地セルの華奢な背広を着た太った姿が、血みどろになって倒れて居るのを、二人の水夫が茫然立って見て居た。 私の心にはイフヒムが急に拡大して考えられた。どんな大活動が演ぜられるかと待ち設けた私の期待は、背負投げを喰わされた気味であったが、き・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・ フレンチが正気附いたのは、誰やらが袖を引っ張ってくれたからであった。万事済んでしまっている。死刑に処せられたものの刑の執行を見届けたという書きものに署名をさせられるのであった。 茫然としたままで、フレンチは署名をした。どうも思慮を・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であった。 茫然。 世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・…… 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場を出た所の、故郷は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時茫然として彳んだのは、つい二、三日前の事であった。 腕車を雇って、さして行く従姉の町より・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 今まで唯一の問題になっていた本人が、突然はいってきたのだから、みんな相顧みて茫然自失というありさまだ。さすがの政さんも今までお前さんのうわさをしていたのさとは言いかねて、一心に繩をなうふうにしている。おとよさんはみんなにお愛想をいうて・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・軒燈の光り鈍く薄暗い停車場に一人残った予は、暫く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。「旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
出典:青空文庫