・・・ 坑夫等は、しばらく、そこに茫然と立っていた。 川下の、橋の上を、五六台の屋根のあるトロッコが、検査官や、役員をのせてくだって行くのが、坑口から見えた。トロッコは、山を下ることが愉快であるかのように、するすると流れるように線路を、辷・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・お浪もこの夙く父母を失った不幸の児が酷い叔母に窘められる談を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙ぐんで茫然として、何も無い地の上に眼を注いで身動もしないでいた。陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーん・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・今思えば真実に夢のようなことでまるで茫然とした事だが、まあその頃はおれの頭髪もこんなに禿げてはいなかったろうというものだし、また色も少しは白かったろうというものだ。何といっても年が年だから今よりはまあ優しだったろうさ、いや何もそう見っともな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ そこまで思いつづけて行くと、おげんは独りで茫然とした。それからの彼女が自分の側に見つけたものは、次第に父に似て行く兄の方の子であり、まだこの世へも生れて来ないうちから父によって傷けられた妹の方の子であったから。 回想はある都会風の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ そこまで考えて行くと、お三輪は茫然としてしまった。 単調な機場の機の音は毎日のようにお三輪の針仕事する部屋まで聞えて来ていた。お三輪はその音を聞きながら、東京の方にいる新七のために着物を縫った。亡くなった母のことが頻りに恋しく思い・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 四十歳近い頃の作品と思われるが、その頃に突きあたる絶壁は、作家をして呆然たらしめるものがあるようで、私のような下手な作家でさえ、少しは我が身に思い当るところもないではない。たしか、その頃のことと記憶しているが、井伏さんが銀座からの帰り・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいう若い男が、ふとしたはずみで女を、むごたらしく殺してしまって、その場に茫然立ちつくしていると、季節は、ちょうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の幟が、ばたばたばたばたと、烈風にはためいている音・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・私は極端に糠味噌くさい生活をしているので、ことさらにそう思われるのかも知れませんが、五十歳を過ぎた大作家が、おくめんも無く、こんな優しいお手紙をよくも書けたものだと、呆然としました。怒って下さい。けれども絶交しないで下さい。私は、はっきり言・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・』先夜ひそかに如上の文章を読みかえしてみて、おのが思念の風貌、十春秋、ほとんど変っていないことを知るに及んで呆然たり、いや、いや、十春秋一日の如く変らぬわが眉間の沈痛の色に、今更ながらうんざりしたのである。わが名は安易の敵、有頂天の小姑、あ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・行ってみて呆然としてしまった。変っているどころではなかったのである。 僕はその日、すぐに庭から六畳の縁側のほうへまわってみたのであるが、青扇は猿股ひとつで縁側にあぐらをかいていて、大きい茶碗を股のなかにいれ、それを里芋に似た短い棒でもっ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫