・・・私は、呆然とした。ただその先輩から、結婚のしるしの盃をいただいて、そうして、そのまま嫁を連れて帰ろうと思っていたのだ。やがて、中畑さんと北さんが、笑いながらそろってやって来た。中畑さんは国民服、北さんはモーニング。「はじめましょう、はじ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋をひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然として客間にひとりでぐったり横坐りに・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・そういった、アマツール的な気持からは、ただ、太宰治のくるしみを、肉体的に感じてくるばかりで、傍観者として呆然としているばかりである。僕自身へ巣くう生半可な態度は、おそらくいつまでもつづくことと思われます。僕の健康は、人に思われてるほど、わる・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・すなわち、呆然として退場しなければならぬ。気を取りなおして、よし、もういちど、と更に戸外の長蛇の如き列の末尾について、順番を待つ。これを三度、四度ほど繰り返して、身心共に疲れてぐたりとなり、ああ酔った、と力無く呟いて帰途につくのである。国内・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴族先生の顔色を見るに、そうは受け取れない。世界を一周する。誰一人それを望まないものはない。しかしどんな条件があるのだろうと、誰も猶予する。「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・そうして遠いロシアの新映画の先頭に立つ豪傑の慧眼によって掘り出され利用されて行くのを指をくわえて茫然としていなければならないのである。しかも、ロシア人にほんとうに日本の俳諧が了解されようとは考えにくいのに、それだのにそのロシア人の目を一度通・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・哀れな人間の科学はただ茫然として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、たとえばウェルズの描いた火星の人間などを比較しても、人間の空想の可能範囲がいかに狭小貧弱なものであるかを見せつけられるよう・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請け合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業になんらかの方法で手を貸しうると仮定すると、四十万人の手・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業に何らかの方法で手を借し得ると仮定すると、四十万人の手で五・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
出典:青空文庫