・・・ 大通へ抜ける暗がりで、甘く、且つ香しく、皓歯でこなしたのを、口移し…… 九 宗吉が夜学から、徒士町のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋の間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾いだ濡縁づきの六畳から、男が一人摺違いに出て行・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 仮初に置いた涼傘が、襤褸法衣の袖に触れそうなので、密と手元へ引いて、「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘に目を遣った。 立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も静に視ている。 五 しばらくす・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ まだ突立ったままで、誰も人の立たぬ店の寂しい灯先に、長煙草を、と横に取って細いぼろ切れを引掛けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通しの針線に黒く畝って搦むのが、かかる折から、歯磨屋の木蛇の運動より凄いのであった。 時に、手遊屋の冷・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・半纏、股引、腹掛、溝から引揚げたようなのを、ぐにゃぐにゃと捩ッつ、巻いつ、洋燈もやっと三分心が黒燻りの影に、よぼよぼした媼さんが、頭からやがて膝の上まで、荒布とも見える襤褸頭巾に包まって、死んだとも言わず、生きたとも言わず、黙って溝のふちに・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 一個の幼児を抱きたるが、夜深けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊め、着たる襤褸の綿入れを衾となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・満蔵は米搗き、兄は俵あみ、省作とおはまは繩ない、姉は母を相手にぼろ繕いらしい。稲刈りから見れば休んでるようなものだ。向こうの政公も藁をかついでやって来た。「どうか一人仲間入りさしてください。おや、おはまさんも繩ない……こりゃありがたい。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ なんでも、そこは河辺のような木のしげった間に、板や、竹を結びつけて、その上を草や、わらでふいた哀れな小屋の中に、七つか八つになった女の子が、すみの方にぼろにくるまって、あの人形をたいせつに、しっかりと抱いて眠っていますと、寒い寒い星の・・・ 小川未明 「なくなった人形」
・・・月の光で、よくそのじいさんの姿を見守ると、破れた洋服を着て、古くなったぼろぐつをはいていました。もうだいぶの年とみえて、白いひげが伸びていました。「あなたはだれですか。」と、少年は声に力を入れて問いました。 するとじいさんは、と・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・薄暗い二間には、襤褸布団に裹って十人近くも寝ているようだ。まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた。私は勝手が分らぬので、ぼんやり上り口につっ立っていると、すぐ足元に寝ていた男に、「おいおい。人の頭の上で泥下駄を垂下げてる・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・雨が眼にはいったせいばかりではなかった。ぼろりと泪を落して、私は、Sはきっと目覚しい働きをするだろうと、Sの逞しい後姿を見た。そうしてSの姿を見失うまいと、私はもはや傘もささずに、S達の行軍のあとを追うて行った。雨はなおも降っていた。・・・ 織田作之助 「面会」
出典:青空文庫