・・・ならした後へ三万枚の黄金を蒔く。するとアグーの太守がわしは勝ち手にとらせる褒美を受持とうと十万枚の黄金を加える。マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭の火で煮焼した珍味を振舞うて、銀の皿小鉢を引出物に添える」「もう沢山じゃ」とウィリア・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そして上瞼を上の方へまくし上げた。行李は私のようにフラフラしながら流れて行った。 セコンドメイトは、私が、どんなに非常識な事をいっても「憤ってはならない」と心の中で決めているらしかった。 ――若し、今、こいつに火をつけたら、ダイナマ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 智識は素と感情の変形、俗に所謂智識感情とは、古参の感情新参の感情といえることなりなんぞと論じ出しては面倒臭く、結句迷惑の種を蒔くようなもの。そこで使いなれた智識感情といえる語を用いていわんには、大凡世の中万端の事智識ばかりでもゆかねば・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・南車を胡地に引き去るかすみかな閣に坐して遠き蛙を聞く夜かな祇や鑑や髭に落花を捻りけり鮓桶をこれへと樹下の床几かな三井寺や日は午に逼る若楓柚の花や善き酒蔵す塀の内耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵採蓴をうたふ彦根の夫かな・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「も少しきちんと窓をしめて、室中暗くしなくては、脂がうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日阿麻仁を少しずつやって置いて呉れないか。」教師は若い水色の、上着の助手に斯う云った。豚はこれをすっかり聴いた・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・ そこらの畑では燕麦もライ麦ももう芽をだしていましたし、これから何か蒔くとこらしくあたらしく掘り起こされているところもありました。 そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはいってしまっていました。 向うからは黒い着・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・二人の精霊もその声にこっちを向いて二人の廻りをとり巻く。第一の精霊 シリンクスお主はこの若人に何をお云いなされた? あの笑い声は――あんまりとりとめもない声だったが――精女アノ、私はこの方が死ねと云えとおっしゃいましたので申した・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・屋根がトタンだから、風が吹いて雨が靡くとバラバラ、小豆を撒くような音がした。さもなければザッ、ザッ、気味悪くひどい雨音がする。一太は、小学校へ一年行ったぎりで仮名も碌に知らなかった。雑誌などなかったから、一太は寝転んだまま、小声で唐紙を読ん・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ささやかな紙の障子はゆるがぬ日に耀き渡りマジョリカの小壺に差した三月の花 白いナーシサス、薄藤色の桜草はやや疲れ仄かに花脈をうき立たせ乍らも心を蕩す優しさで薫りを撒く。此深い白昼の沈黙と溢れ・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
出典:青空文庫