・・・駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。佐吉さんでも居なければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです。汽車賃や何かで、姉から・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・道路の真中に大きな樹のあるのを切残してあるのも愉快である。 スイスあたりの山のホテルを想わせるような帝国ホテルは外側から観賞しただけで梓川の小橋を渡り対岸の温泉ホテルという宿屋に泊った。新築別館の二階の一室に落ちついた頃は小雨が一時止ん・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 東京附近の自動車道路の詳細な地図はないかと思ってこの間中探したが見付からなかった。鳥瞰図式の粗雑なものはあったが、図がはなはだしく歪められているので正確な距離や方角の見当がつかないし、またどのくらい信用出来るかも不明である。鉄道省で出・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・腰掛の一番後ろの片隅に寄りかかって入口の脇のガラス窓に肱をもたせ、外套の襟の中に埋るようになって茫然と往来を眺めながら、考えるともなくこの間中の出来事を思い出している。 無病息災を売物のようにしていた妹婿の吉田が思いがけない重患に罹って・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉って真中からどぶんと飛込んじゃった。残念でならんがだ。」爺さんは調子に乗って来ると、時々お国訛りが出た。「そこへ上官が二人通りあわせて、乗棄ててある馬を・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・先生は海鼠腸のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる天然野生の粗暴が陶器漆器などの食器に盛れている料理の真中に出しゃばって、茲に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せてい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青玉のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛が」と云うて長い袖が横に靡く、二人の男は共に床の方を見る。香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ貼りついていた。テーブルも椅子もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジク・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 秋山は、ベルの中絶するのを待っている間中、十数年来、曾てない腰の痛みに悩まされていた。その時間は二分とはなかった、が彼には二時間にも思えた。 秋山は平生から信じていた。導火線に火を移す時は、たといどんな病気でも、一時遠慮するものだ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
出典:青空文庫