・・・それは、あとあと迄、あの人の名誉を守るよすがともなろう。女二人に争われて、自分は全く知らぬ間に、女房は殺され、情婦は生きた。ああ、そのことは、どんなに芸術家の白痴の虚栄を満足させる事件であろう。あの人は、生き残った私に、そうして罪人の私に、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・わが身と立場とを守る笑いだ。防禦の笑いだ。敵の鋭鋒を避ける笑いだ。つまり、ごまかしの笑いである。 そうして、私の寝ながらの空想は、次のような展開をはじめたのである。 彼はあの街頭の討論を終えて、ほっとして汗を拭き、それから急に不機嫌・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・それだのにそうかと云って、洋画家で絵絹へ油絵具を塗る試みをあえてする人、日本画家でカンバスへ日本絵具を盛り上げる実験をする人がないのはむしろ不思議なくらいである。 洋画を通じてルソーやマチスや、ドランやマルケーなどのようなフランス絵の影・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・しかし、この個人的な経験はおそらく一般的には応用が利かないであろうし、ましてや、科学の神殿を守る祭祀の司になろうと志す人、また科学の階段を登って栄達と権勢の花の山に遊ぼうと望む人達にはあまり参考になりそうに思われないのである。ただ科学の野辺・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・同博士がいろいろシナの書物を渉猟された結果によると釁るという文字は犠牲の血をもって祭典を挙行するという意味に使われた場合が多いようであるが、しかしとにかく、一書には鐘を鋳た後に羊の血をもってその裂罅に塗るという意味に使われているそうである。・・・ 寺田寅彦 「鐘に釁る」
・・・ このあいだじゅう板塀の土台を塗るために使った防腐塗料をバケツに入れたのが物置きの窓の下においてあった。その中に子猫を取り落としたものと思われた。頭から油をあびた子猫はもう明らかに呼吸が止まっているように見えたが、それでもまだかすかに認・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・もしも時代と場所がちがっていて、人が自分の生命に賭けても Honour を守るような場合であったらこれはただではすみそうもない。 こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。 それから四、五日経っての事である。私は・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・羊の群れを守る番犬がぐるぐる駆け回って、列を離れようとする羊を追い込むような様子があった。今になって考えてみるとあれはやはり輪郭線や色彩が逃げよう逃げようとするのを見張っていたのだと思われた。こういうふうにやらなければならないとなるとなかな・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・ 一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子は外からはいる黴菌を食い・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・参詣者はその背中に突き出た瘤のようなものの上で椰子の殻を割って、その白い粉を額へ塗るのだそうな。どういう意味でそうするのか聞いてもよくわからなかった。まっ黒な鉄の鳥の背中は油を浴びたように光っていた。壇に向かった回廊の二階に大きな張りぬきの・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫