・・・しばらくお夏への足をぬきしが波心楼の大一坐に小春お夏が婦多川の昔を今に、どうやら話せる幕があったと聞きそれもならぬとまた福よしへまぐれ込みお夏を呼べばお夏はお夏名誉賞牌をどちらへとも落しかねるを小春が見るからまたかと泣いてかかるにもうふッつ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・意はよし往なんとぞ思う俊雄は馬に鞭御同道仕つると臨時総会の下相談からまた狂い出し名を変え風俗を変えて元の土地へ入り込み黒七子の長羽織に如真形の銀煙管いっそ悪党を売物と毛遂が嚢の錐ずっと突っ込んでこなし廻るをわれから悪党と名告る悪党もあるまい・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のように思い、これまで殆んど避暑・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足を脛のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。 この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとう・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・その歩き付きを見る。その靴や着物の値ぶみをする。それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 先、堯典に見るにその事業は羲氏・和氏に命じて暦を分ちて民の便をはかり、その子を措いて孝道を以て聞えたる舜を田野に擧げて、之に位を讓れることのみ。而してその特異なる點は天文暦日に關するもの也。即ち天に關する分子なり。 次に舜典に徴す・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・一本々々見ると、みんな同じように金色に光っているのですが、三本一しょにならべると、女の顔を画いた一まいの画になるのでした。それこそ、この世界中で一ばん美しい女ではないかと思われるような、何ともいえない、きれいな女の画姿です。ウイリイはびっく・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。「そんなものを私に着せるのですか」「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉を煽ぎながらいう。羽・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・クリスマスの晩だのに、そんな風に一人で坐っているところを見ると、まるで男の独者のようね。ほんとにお前さんのそうしているところを見ると、わたし胸が痛くなるわ。珈琲店で、一人ぼっちでいるなんて。お負けにクリスマスの晩だのに。わた・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫