・・・我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。 鑑賞 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ その時、はじめて樗牛に接した自分は、あの名文からはなはだよくない印象を受けた。というのは、中学生たる自分にとって、どうも樗牛はうそつきだという気がしたのである。 それにはほかにもいろいろ理由があったろうが、今でも覚えているのは、あ・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・そう云う場合、どうなると云う明文は守衛規則にありませんから、――」「職に殉じても?」「職に殉じてでもです。」 保吉はちょいと大浦を見た。大浦自身の言葉によれば、彼は必ずしも勇士のように、一死を賭してかかったのではない。賞与を打算・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 松任にて、いずれも売競うなかに、何某というあんころ、隣国他郷にもその名聞ゆ。ひとりその店にて製する餡、乾かず、湿らず、土用の中にても久しきに堪えて、その質を変えず、格別の風味なり。其家のなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものあり・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・汲んで飲むものはこれを飲むがよし、視めるものは、観るがよし、すなわち清水の名聞が立つ。 径を挟んで、水に臨んだ一方は、人の小家の背戸畠で、大根も葱も植えた。竹のまばら垣に藤豆の花の紫がほかほかと咲いて、そこらをスラスラと飛交わす紅蜻蛉の・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・椿岳が小林姓を名乗ったのは名聞好きから士族の廃家の株を買って再興したので、小林城三と名乗って別戸してからも多くは淡島屋に起臥して依然主人として待遇されていたので、小林城三でもありまた淡島屋でもあったのだ。 尤もその頃は武家ですらが蓄妾を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・余り名文ではないが、淡島軽焼の売れた所以がほぼ解るから、当時の広告文の見本かたがた全文を掲げる。私店けし入軽焼の義は世上一流被為有御座候通疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座候に付享和三亥年はしか流行の節は御用込合順番札にて差上候儀・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・また紅葉の人生観照や性格描写を凡近浅薄と貶しながらもその文章を古今に匹儔なき名文であると激賞して常に反覆細読していた。最も驚くべきは『新声』とか何々文壇とかいうような青年寄書雑誌をすらわざわざ購読して、中学を卒業したかそこらの無名の青年の文・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 学生時代に、その講義を聴いた小泉八雲氏は、稀代な名文家として知られていますが、たとえば、夏の夜の描写になると、殆んど、熱した空気が、肌に触れるようにまた、氏の好めるやさしい女性が、さゝやく時には、その息が、自分の顔にまで、かゝるように・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・ 坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫