・・・ 戦争の永い間、私たちは声を奪われ、文字を奪われた生活を耐えて来た。その黙らされていた日々を、私たちの精神は、何も感じずに生きて来たというのだろうか。 時が来れば苔にさえ花は咲くものを。あの苦しさ、あの思いを、女として全生活の上に蒙・・・ 宮本百合子 「明日咲く花」
・・・介錯は門司源兵衛がした。原田は百五十石取りで、お側に勤めていた。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田源太夫がした。宗像加兵衛、同吉太夫の兄弟は、宗像中納言氏貞の後裔で、親清兵衛景延の代に召し出された。兄弟いずれも二百石取りである。五月二日に兄・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・予が久しく鴎外漁史という文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出せられて一驚を喫したのもこれがためである。然るに昨年の暮におよんで、一社員はまた予をおとずれて、この新年の新刊のために何か書けと曰うた。その時の話に、敢て注文する・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・我学友はあるいは台湾に往き、あるいは欧羅巴に遊ぶ途次、わざわざ門司から舟を下りて予を訪うてくれる。中にはまた酔興にも東京から来て、ここに泊まって居て共に学ぶものさえある。我官僚は初の間は虚名の先ず伝ったために、あるいは小説家を以て予を待った・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
石田小介が少佐参謀になって小倉に着任したのは六月二十四日であった。 徳山と門司との間を交通している蒸汽船から上がったのが午前三時である。地方の軍隊は送迎がなかなか手厚いことを知っていたから、石田はその頃の通常礼装という・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・それは、文学が絶対に文字を使用しなければならぬと云う、此の犯すべからざる宿命によって、「文字の表現」の一語で良い。これは、いかなるものと雖も認めるであろう。 しかしながら、その次に何物よりも、われわれの最もより多く共通した問題となる・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・後に言った三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリングはドイツを読むと見える。書物の選択から推して見ると、この男は宗教哲学のようなものを研究しているらしい。 大きな望遠鏡が、高い台に据えて、海の方へ向けてある。後に聞・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。い・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫