・・・細面ながら力身をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌は靨かとも見紛われる。とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。 吉里が入ッて来た時、二客ともその顔・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・世間の婦人或は此道理を知らず、多くの子を持ちながら其着物の綻を縫うは面倒なり、其食事の世話は煩わしとて之を下女の手に託し、自分は友達の附合、物見遊山などに耽りて、悠々閑々たる者あるこそ気の毒なれ。元来を言えば婦人の遊楽決して咎む可らず。鬱散・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜したのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたくしはやはり前の夢の続きを見ていました。 この夢があるので・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(家来ランプを点して持ち来り、置いて帰り行ええ、またこの燈火が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直な道を見る事の出来ない時、厭な間道を探し損なった記念品だ。この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を孫娘の嫁入に譲ってやる方だ。して見ると福の神はこんな皺くちゃ婆さんを嫌うのであろうか。あるいは福の神はこの婆さんの内の門口まで行くのであるけれど、婆さんの方で、福なんかいらないという・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・「あわもちだ。あわもちだ。おらはなっても取らないよ。粟をさがすなら、もっと北に行って見たらよかべ。」 そこでみんなは、もっともだと思って、こんどは北の黒坂森、すなわちこのはなしを私に聞かせた森の、入口に来て云いました。「粟を返し・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・今いる家は、町の家作持ちの好意で家賃なしであった。村にも、彼女より立派に縫物の出来る女は、数人いた。植村婆さんは、若い其等の縫いてがいやがる子供物の木綿の縫いなおしだの、野良着だのを分けて貰って生計を立てて来たのであった。沢や婆のいるうちは・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・あげくのはてが自分の心をおもちゃにしてクルリッともんどりうたしてそれを自分でおどろいてそのまんま冥府へにわかじたての居候となり下る。妙なものじゃ。第一の精霊 その様に覚ったことは云わぬものじゃよ。どこの御仁かわしゃ得知らんがあの精女の白・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
出典:青空文庫