・・・ 小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、煙草職工、中年から文選工になった男で、小学三年までで、図書館で独学し、大正七年の米暴動の年に、津田や三吉をひきいて「熊本文芸思想青年会」を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・是日また大行寺の門前を通り過ぎて、わたくしは偶然東都歳事記に記載せられた垂糸桜の今猶すこやかである事をも知ったのである。わたくしは桜花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂糸桜を推して第一とする。 谷中天王寺は明治・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 小石川区内では○植物園門前の小石川○柳町指ヶ谷町辺の溝○竹島町の人参川○音羽久世山崖下の細流○音羽町西側雑司ヶ谷より関口台町下を流れし弦巻川。 芝区内では○愛宕下の桜川また宇田川○芝橋かかりし入堀 赤坂区内では○溜池桐畠の溝渠・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 台町の吾家に着いたのは十時頃であったろう。門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子の隙から女の笑い声が洩れる。ベルを鳴らして沓脱に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をし・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・Oは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。それから三人前後して濡れた石を踏みながら典座寮と書いた懸札の眼につく庫裡から案内を乞うて座敷へ上った。 老師に会うのは約二十年ぶりであ・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ 俚諺にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・似而非文人は曰く、黄金百万緡は門前のくろの糞のごとしと。曙覧は曰くたのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時たのしみは物をかかせて善き価惜みげもなく人のくれし時 曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 平右衛門はひらりと縁側から飛び下りて、はだしで門前の白狐に向って進みます。 みんなもこれに力を得てかさかさしたときの声をあげて景気をつけ、ぞろぞろ随いて行きました。 さて平右衛門もあまりといえばありありとしたその白狐の姿を見て・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 何年もその家はそこに在って、二階の手摺に夜具が乾してあるのが往来から見えたりしていたが、昨年の初めごろ、一つの立札がその門前に立てられた。 梅時分になると、よく新宿駅などに、どこそこの梅と大きい鉢植えの梅の前に立てられている、ああ・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
出典:青空文庫