・・・ 麓を見ると、塵焼場だという、煙突が、豚の鼻面のように低く仰向いて、むくむくと煙を噴くのが、黒くもならず、青々と一条立騰って、空なる昼の月に淡く消える。これも夜中には幽霊じみて、旅人を怯かそう。――夜泣松というのが丘下の山の出端に、黙っ・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・そしてそれを村の焼場で焼いたとき、寺の和尚さんがついていて、「人間の脳味噌の黒焼きはこの病気の薬だから、あなたも人助けだからこの黒焼きを持っていて、もしこの病気で悪い人に会ったら頒けてあげなさい」 そう言って自分でそれを取り出してく・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 殺風景な病室の粗末な寝台の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、秋雨のふる日に焼場へ行った時の佗しい光景を思い起さぬでもないが、今の平一の心持にはそれが丁度覚めたばかりの宵の悪夢のように思われるのである。 妹を引取って後・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾うから知っている。「御夢・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・おおかた葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子に違いない。黒い男は互に言葉も交えずに黙ってこの棺桶を担いで行く。天下に夜中棺桶を担うほど、当然の出来事はあるまいと、思い切った調子でコツコツ担いで行く。闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・とある山陰の杉の木立が立っておるような陰気な所で其木立をひかえて一つの焼き場がある。焼き場というても一寸した石が立っておる位で別に何の仕掛けもない。唯薪が山のように積んである上へ棺を据えると穏坊は四方から其薪へ火をつける。勿論夜の事であるか・・・ 正岡子規 「死後」
・・・そして、鋭い哀愁の、これらの日に私のまわりには馬もなく、犬もなかったこと、そして鼠と悲しみを分つことを考えつかなかったことを惜んだ――それはパン焼場に沢山いて、私は彼等と良い親しい関係にあったのだが。――」 ゴーリキイのまわりには巡査の・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ パン焼場での労働は学生達の集会へ出ることを不可能にした。当時の急進的学生は、憎むべき徒食階級に対置して「民衆」を観念的に理想化するにとどまり、誰一人実際にパン焼工場の地下室へゴーリキイを訪ねて彼を鼓舞しなければならぬという必要には思い・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
出典:青空文庫