・・・と綿貫は呟やくように言った。「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」「愈々以て謎のようだ!」と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚き・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くものは自分の外に升屋の老人ばかり。予算から寄附金のことまで自分が先に立って苦労する。敷地の買上、その代価の交渉、受負師との掛引、割当てた寄附金の取立、現金の始末まで自分に為せられ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・お女中が来て今日はお美味い海苔巻だから早やく来て食べろと言ったが当頭俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く厭だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・「仏法やうやく顛倒しければ世間も亦濁乱せり。仏法は体の如く、世間は影の如し。体曲がれば影斜なり」 それ故に王法を安泰にし、民衆を救うの道は仏法を正しくするをもって根本としなければならぬ。 しからばいかなるが仏の正法であるか。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・言にいでて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞かへたりけり思ふこと心やりかね出で来れば山をも川をも知らで来にけり冬ごもり春の大野を焼く人は焼きたらぬかもわが心焼くかくのみにありけるものを猪名川の奥を深めて吾が念へりける・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷす燻り、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。けれども、それも、大隊長の内心の幸福を妨げなかった。「ユフカは、たしかに司令官閣下の命令通り、パルチザ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・彼のお蝶さんという方なども私の後へ廻って清書の世話などを焼く時に、つい知らずに踏みつけて吃驚した一人でした。犬に吠えられるのは怖かったが、これはまた非常に可笑しく思ったから今以て思い出して独り興ずる折もある位で、本宅を捜したらまだ其大巾着が・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ヨウヤク目ヲサマスト、オ母ッチャハ、アーアーモウ長クナイヨ、ト云ウノ。 アルバン、君チャンガ何カニビックリサレタヨウニ、フト目ヲサマシタノ。イソイデ、オ母ッチャノ方ニ手ヲノバシテヤッテ、ヨナカニコエヲ出スノガオッカナイノデ、ハジメダマッ・・・ 小林多喜二 「テガミ」
・・・とにかく、この蜂谷の医院へ着いたばかりに桑畠を焼くような失策があって、三吉のような子供にまでそれを言われて見ると、いかに自分ばかり気の確かなつもりのおげんでも、これまで自分の為たことで養子夫婦を苦しめることが多かったと思わないわけにはいかな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「かァさん、かさん――やくらか、やくや――ほうちさ、やくやくう――おんこしゃこ――もこしゃこ――」 何処で教わるともなく、鞠子はこんなことを覚えて来て、眠る前に家中踊って歩いた。 五月の町裏らしい夜は次第に更けて行った。お島の許・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫