・・・ 対岸の山は半ばは同じ紅葉につつまれて、その上はさすがに冬枯れた草山だが、そのゆったりした肩には紅い光のある靄がかかって、かっ色の毛きらずビロードをたたんだような山の肌がいかにも優しい感じを起させる。その上に白い炭焼の煙が低く山腹をはっ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・日本一の大原野の一角、木立の中の家疎に、幅広き街路に草生えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚でゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおいなる田舎町・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・――一度は、たとえば、敦賀湾でありました――絵にかいた雨竜のぐるぐると輪を巻いて、一条、ゆったりと尾を下に垂れたような形のものが、降りしきり、吹煽って空中に薄黒い列を造ります。 見ているうちに、その一つが、ぱっと消えるかと思うと、たちま・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・しかし、うしろからは、導火線に点火し終った井村がカンテラをさげ、早足に、しかもゆったりとやって来た。――そのカンテラがチラ/\見えた。それは、途中で、支坑へそれた。 市三は、ケージから四五間も手前で鉱車を止めた。そして、きまり悪るげにお・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ ○ 顔も大きいが身体も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚上髭頬髯を無遠慮に生やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚にまださほどは居ぬ蚊を吾家から・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・縁に花蓙が敷いてある、提煙草盆が出ている。ゆったりと坐って烟草を二三服ふかしているうちに、黒塗の膳は主人の前に据えられた。水色の天具帖で張られた籠洋燈は坐敷の中に置かれている。ほどよい位置に吊された岐阜提灯は涼しげな光りを放っている。 ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・あの人は、私の内心の、ふたたび三たび、どんでん返して変化した大動乱には、お気づきなさることの無かった様子で、やがて上衣をまとい服装を正し、ゆったりと席に坐り、実に蒼ざめた顔をして、「私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。おまえ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張しているようではないか。あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の真下の赤い西洋甍は、なんとかいう有名な将軍のものであ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・それから、ゆったり試験場へ現れたのである。 試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしていた。前方の席に坐るならば、思うがままに答案を書けまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ 若い才能と自称する浅墓な少年を背後に従え、公園の森の中をゆったり歩きながら、私は大いに自信があった。果して私が、老いぼれのぼんくらであるかどうか、今に見せてあげる。少年は、私について歩いているうちに次第に不安になって来た様子で、ひとり・・・ 太宰治 「乞食学生」
出典:青空文庫