・・・では、取急ぎ要用のみ。前略、後略のまま。大森書房内、高折茂。太宰学兄。」「僕はこの頃緑雨の本をよんでいます。この間うちは文部省出版の明治天皇御集をよんでいました。僕は日本民族の中で一ばん血統の純粋な作品を一度よみたく存じとりあえず歴代の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・まんなかの円い峯は、高さが三四丈もあるであろうか。様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむ・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・言い忘れていたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村下連雀にあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て来て遊んでいるのであって、親爺は地主か何かでかなりの金持ちらしく、そんな金持ちであるからこそ様様に服装をかえたりなんかしてみることもできるわけで、・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・と魚容もいまは鷹揚にうなずき、「案内たのむ。」「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。 秋風嫋々と翼を撫で、洞庭の烟波眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍、灼爛と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐一点の翠黛を・・・ 太宰治 「竹青」
・・・(鷹揚お母さんが亡くなって、もう何年になりますかしら。僕がここの小学校にはいったとしの夏に死んだのですから、もう二十年にもなります。 もう、そんなになりますかねえ。わたくしどもも、お母さんのお葬式の時の事は、よく覚えていますよ。いま・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・次郎兵衛は大社の大鳥居のまえの居酒屋で酒を呑みながら、外の雨脚と小走りに走って通る様様の女の姿を眺めていた。そのうちにふと腰を浮かしかけたのである。知人を見つけたからであった。彼の家のおむかいに住まっている習字のお師匠の娘であった。赤い花模・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・珍しく鷹揚な猫で、ある日犬に追われて近所の家の塀と塀との間に遁げ込んだまま、一日そこにしゃがんでいたのを、やっと捜し出して連れて来たこともあった。スマラグド色の眼と石竹色の唇をもつこの雄猫の風貌にはどこかエキゾチックな趣がある。 死んだ・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・挙動もいくらかは鷹揚らしいところができてきたが、それでも生まれついた無骨さはそう容易には消えそうもない。たとえば障子の切り穴を抜ける時にも、三毛だとからだのどの部分も障子の骨にさわる事なしに、するりと音もなくおどり抜けて、向こう側におり立つ・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・近来電気の応用が盛んになるにつれて色々の事に炭を使う、白熱電灯の細い線も炭、アーク灯の中の光る棒も炭である、電話機の受話口の中の最も要用なものは炭でこしらえた丸薬のようなものである。 白炭 小枝に石灰を塗って焼いた・・・ 寺田寅彦 「歳時記新註」
・・・媚びず怒らず詐らず、しかも鷹揚に食品定価の差等について説明する、一方ではあっさりとタオルの手落ちを謝しているようであった。 しかし悲しいことにはこのたぶん七十歳に遠くはないと思われる老人には今日が一九三五年であることの自覚が鮮明でないら・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
出典:青空文庫