・・・喜三郎は気を揉んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭を振って、許す気色も見せなかった。 やがて寺の門の空には、這い塞った雲の間に、疎な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。そうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった。……「どうですね。これでもまだ、君は城山戦死説を主張しますか。」 老紳士は赤くなった顔に、晴々・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・あすこの嚊は子種をよそから貰ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰いの女だった。大人数なために稼いでも稼いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩に襲われた。胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・何とは知らず周囲の草の中で、がさがさ音がして犬の沾れて居る口の端に這い寄るものがある。木の上では睡った鳥の重りで枯枝の落ちる音がする。近い街道では車が軋る。中には重荷を積んだ車のやや劇しい響をさせるのもある。犬の身の辺には新らしいチャンの匂・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も思う男の人香に寄る蝶、処を違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、「立花さん。」「…………」「立花さん。」 襖の裏へ口をつけるばかり・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏を貼った顔を掉って、年増が真先に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連が茶店へ駆寄る。 ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少いのが、続いて入りざまに、「じゃあ、何だぜ、お・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・そして、慕い寄るものを慰めよう。」 これは曠野の王者として、まさに貴い考えでありました。 このときです。つばめは、しきりに鳴きました。あらしのくるのを知らしたのでした。 日の光はかげって、雑草の花の上は暗くなりました。ちょうや、・・・ 小川未明 「曠野」
・・・「私、今日、デパートへ寄るから、良ちゃんにいいのを買ってきてあげるわ。」と、お姉さんは、いいました。すると、たちまち、良ちゃんの目はかがやきました。「ほんとう? お姉ちゃん、僕にぴかぴかした、シャープ=ペンシルを買ってきてくれる?」・・・ 小川未明 「小さな弟、良ちゃん」
・・・と新五郎は老眼を数瞬きながらいざり寄る。「どうかお光の力になってやって……阿父さん、お光を頼みますよ……」「いいとも! お光のことは心配しねえでも、俺が引き受けてやるから安心しな」「お光……」「はい……」「お前も阿父さん・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫