・・・ いずこともなくニンフとパンの群が出て来る。眩しいような真昼の光の下に相角逐し、駈けり狂うて汀をめぐる。汀の草が踏みしだかれて時々水のしぶきが立つ。やがて狂い疲れて樹蔭や草原に眠ってしまう。草原に花をたずねて迷う蜂の唸りが聞える。 ・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・それが自分の夢のような記憶の中ではニンフの棲処とでも云ったような不思議な神秘的な雰囲気につつまれて保存されているのである。帰省してこの濠のあったはずの場所を歩いてみても一向に想い出せないような昔の幻影が、かえって遠く離れた現在のここでの追憶・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・それはほんとうにバッカスの酒宴で、酒は泉とあふれ、肉は林とうずたかく、その間をパンの群れがニンフの群れを追い回すのである。 豪家に生まれた子供が女であったために、ひどく失望した若い者らは、大きな羽子板へ凧のように糸目をつけてかつぎ込んだ・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・一面に陳列された商品がさき盛った野の花のように見え、天井に回るファンの羽ばたきとうなりが蜜蜂を思わせ、行交う人々が鹿のように鳥のようにまたニンフのように思われてくるのである。あらゆる人間的なるものが、暑さのために蒸発してしまって、夢のような・・・ 寺田寅彦 「夏」
出典:青空文庫