・・・ 突然『影』の映画が消えた時、私は一人の女と一しょに、ある活動写真館のボックスの椅子に坐っていた。「今の写真はもうすんだのかしら。」 女は憂鬱な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房子の眼を思い出させた。「どの写真?」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・隣のボックスにいる撮影所の助監督に秋波を送りながら、いい加減に聴き流していたが、それから一週間毎夜同じ言葉をくりかえされているうちに、ふと寺田の一途さに心惹かれた。二十八歳の今日まで女を知らずに来たという話ももう冗談に思えず、十八の歳から体・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・店があくのは朝の十一時だが、十時半からもうボックスに収まって、午前一時カンバンになるまでねばっている。ざっと十三時間以上だ。その間一歩も外へ出ない。いわば一日中「カスタニエン」で暮しているのだ。梃でも動かぬといった感じで、ボックスでとぐろを・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・途端にボックスで両側から男の肩に手を掛けていた二人の女が、「いらっしゃい」と起ち上ったが、その顔には見覚えはなく、また内部の容子が「ダイス」とはまるで違っている。あ、間違って入ったのかと、私はあわてて扉の外へ出ると、その隣の赤い灯が映ってい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・その酒場へ行っても、彼女がほかのボックスへ行っている間は、いらいらと煙草を吸っていた。夜、彼女がパトロンと一緒にいる光景がちらついて、眠れず、机の上に腹ばいになって、煙草ばかし吸った。私の喫煙量は急に増えて行った。 そして、私は放蕩した・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家庭的な雰囲気の店になった。酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」などと記者の渾名を呼んだりし、そのあげく、二次会だと連中とつるんで今里新地へ車を飛ばした。蝶子も客の手前、粋をきかして笑って・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・州上州の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲の風に漂い、秋葉の空に飄るが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子の大洋傘に色の褪せた制服、丈夫一点張りのボックスの靴という扮装で、五里七里歩く日・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・活動常設館の前に来たとき入口のボックスに青い事務服を着た札売の女が往来をぼんやり見ていた。龍介はちょっと活動写真はどうだろうと思った。が、初めの五分も見れば、それがどういうプロセスで、どうなってゆくか、ということがすぐ見透く写真ばかりでは救・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ とみにとんと背中を押されて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って坐ったら、ほかの客が、ちらちら男爵を盗み見る。男爵を見るのではなかった。そんな貧弱な青年の恰好を眺めたって、なんのたのしみにもならない。とみを見るのであ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・資生堂二階のボックスでお逢いして、私が二百円と言いもおわらぬうちに、三度も四度もあわてて首肯き、さっと他の話にさらっていった。二時間のち、同じところで二十枚のばいきんだらけのくしゃくしゃ汚き紙片、できるだけむぞうさに手交して、宅のサラリイ前・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
出典:青空文庫