・・・わしの来るのには何日でも一つしか用事はないわ。主人。まだそれまでには間があるはずだ。一枚の木の葉でも、枝を離れて落ちるまでには、たっぷり木の汁を吸っている。己はそこまでになってはいぬ。己はまだ生きるというように生きて見た事がないのだ。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・その歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる山吹のみの一つだに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。ひた土に筵・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・さっきの泉で洗いますから、下駄をお借老人は新らしい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つもって来た。(いいえもう結構 二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆をたたいて巻き俄かに痛む膝をまげるようにし・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・その一つは、著者が若々しい第一作「敗北の文学」及び「過渡期の道標」で示したニュアンスにとみ曲折におどろかない豊潤な資質は、その後の諸論集のなかでどのように展開されただろうかという問題である。 片上伸研究が「過渡期の道標」と題されたことは・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・ 木村は為事をするのに、差当りしなくてはならない事と、暇のある度にする事とを別けている。一つの机の上を綺麗に空虚にして置いて、その上へその折々の急ぐ為事を持って行く。そしてその急ぐ為事が片付くと、すぐに今一つの机の上に載せてある物をその・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは平屋の窓の傍で縫物をしていた。窓・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。 灸は「ア痛ッ。」といった。 女の子は笑いながらまた叩いた。「ア痛ッ、ア痛ッ。」 そう灸は叩かれる度ごとにいいながら自分も自分の頭を叩いてみて、「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。卓の上には分析に使う硝子瓶がある。六分儀がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もあるという事が分かる。家具は、部屋の隅に煖炉が一つ据えてあって、その側に寝台があるばかりである。「心持の好さそうな住ま・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・「大勢の知らない方と一つ部屋で一晩暮すのは厭なものでございますね。そうでございましょう。人間というものは夜は変になりますのね。誰も誰も持っている秘密が、闇の中で太って来て、恐ろしい姿になりますかと思われますね。ほんにこわいこと。でも、明・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・私にとっては一つの憂愁を切り抜ける事はいくらかの成長になります。しかしそのために私はある時の間冷たい人間になっています。 実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあり・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫