・・・私は町を放れて、暗い道を独り浦辺の方へ辿っているのであった。この困憊した体を海ぎわまで持って行って、どうした機でフラフラと死ぬ気にならないものでもないと思うと、きゅうに怖しくなって足が竦んだ。 私は暗い路ばたに悄り佇んで、独り涙含んでい・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 幾年か前、彼がまだ独りでいて、斯うした場所を飲み廻りほつき歩いていた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云う程のものではなかったけれど、併しその時分口にしていた悲痛とか悲惨とか云う言葉――それ等は要するに感興・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 私は猫の前足を引っ張って来て、いつも独り笑いをしながら、その毛並を撫でてやる。彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短い絨氈のような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうなのである。しかし私にはそれが何の役に立とう? 私はゴロッ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・とのどかに葉巻を燻らせながら、しばらくして、資産家もまた妙ならずや。あわれこの時を失わじ。と独り笑み傾けてまた煙を吐き出しぬ。 峰の雲は相追うて飛べり。松も遠山も見えずなりぬ。雨か。鳥の声のうたたけわしき。 二 ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 時は夏の最中自分はただ画板を提げたというばかり、何を書いて見る気にもならん、独りぶらぶらと野末に出た。かつて志村と共に能く写生に出た野末に。 闇にも歓びあり、光にも悲あり、麦藁帽の廂を傾けて、彼方の丘、此方の林を望めば、まじまじと・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・私の場合ではそれほどでもない女性に、目くもって勝手に幻影を描いて、それまで磨いてきた哲学的知性もどこへやら、一人相撲をとって、独り大負傷をしたようなものだ。これは知性上から見て恥である。 飢えと焦り 青年はあまり・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・相変らず、おかしげににやにや独りで笑っていた。「イーイーイイイ!」という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってき・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・と独り言った。スルト中村は背を円くし頭を低くして近々と若崎に向い、声も優しく細くして、「火の芸術、火の芸術と君は云うがネ。何の芸術にだって厄介なところはきっと有る。僕の木彫だって難関は有る。せっかくだんだんと彫上げて行って、も少しで・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・を挙ぐれば、天寿を全うして死ぬのでなく、即ち自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・眷属に別れて独り死出の山、三途の川を漂泊い行く心細さ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・何時でも眼やにの出る片方の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれて、何んでもなくても独りで涙がポロポロ出るようになった。 角屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のことから暇が出て戻ってきた。「お安や、健は何したんだ?」・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
出典:青空文庫