・・・ とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 自分は素直に立って、独りで玄関へ下りたが、何だか張合が抜けたようでしばらくぼんやりと敷居に立っている。 と、「兄さん」と藤さんが出てくる。「あそこに水天宮さまが見えてるでしょう。あそこの浜辺に綺麗な貝殻がたくさんありますか・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・嘉七は、いかめしい顔つきになり、真暗い窓にむかって独りごとのように語りつづけた。「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚れやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・右の腕を、虚空を斫るように、猛烈に二三度振って、自分の力量と弾力との衰えないのを試めして見て、独り自ら喜んだ。それから書いたものをざっと読んで見た。かなりの出来である。格別読みづらくはない。いよいよ遣らなくてはならないとなると、遣れるものだ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れの観があった。ただその頃から真と正義に対する極端な偏執が目に立った。それで人々は「馬鹿正直」という渾名を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「独りで食べてうまいかね」「わたい三度の御飯は、どんなことがあっても欠かさずきちんきちん食べる方なの。御飯も三膳ずつに極めているの」 おひろは痩せた小さい体の割りには、声がりんりんして深みがあった。それに後で気のついたことだが、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・、鐘の声が最もわたくしを喜ばすのは、二、三日荒れに荒れた木枯しが、短い冬の日のあわただしく暮れると共に、ぱったり吹きやんで、寒い夜が一層寒く、一層静になったように思われる時、つけたばかりの燈火の下に、独り夕餉の箸を取上げる途端、コーンとはっ・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・赤は太十をなくして畢ってぽさぽさと独りで帰ることがある。春といっても横にひろがった薺が、枝を束ねた桑畑の畝間にすっと延び出して僅かに白い花が見え出してまだ麦が首を擡げない頃は其短い麦の間に小さな体にしては恐ろしげな毛を頭に立てた雲雀がちょろ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。四五日すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ しかし右のようにいえば、愚禿の二字は独り真宗に限った訳でもないようであるが、真宗は特にこの方面に着目した宗教である、愚人、悪人を正因とした宗教である。同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太教から出た基督教はなお、正義の観念が強く、い・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
出典:青空文庫