・・・たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活と云うものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気の無い空間になったように、どこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。丁度死ん・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴歎願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の如くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくは無し、こちらも一命たすかる思い、どこがわるい、と先日も・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・アレキサンドル大王はこの美徳をもっていたがために、一命をまっとうしたようであります。みなさん。少年は、まだうごかずにいた。ここにいないわけはない。檻は、きっとからっぽの筈だ。少年は肩を固くした。こうして覗いているうちに、くろんぼは、こっそり・・・ 太宰治 「逆行」
・・・悪癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴嘆願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の如くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくなし、こちらも一命たすかる思い、どこがわるい、と先日も・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・に可哀そうに、と言い、兄の手に渡すとまた捨てられるにきまっているから、これは弟のおもちゃという事にしましょう、と笑いながら言って父に承諾させ、そうしてその犬は、私の冷酷に依って殺されかけたのを母の情で一命を拾い、そうしてそれから優しい弟の家・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・白状なんて、するものか、私は志士のいどころを一命かけて、守って見せる。けれども、蚤か、しらみ、或いは疥癬の虫など、竹筒に一ぱい持って来て、さあこれを、お前の背中にぶち撒けてやるぞ、と言われたら、私は身の毛もよだつ思いで、わなわなふるえ、申し・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・その時の事情をいえば、本人の心に企つるところの事は大に過ぎて、これに応ずべき自己の力は小にして足らず、その大小の平均を得るに路なきがために、無上の宝たる一命をもて己が企つるところの事に殉じ、いささかその情を慰めて、もって快と称するものなり。・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・ 某つらつら先考御当家に奉仕候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙りしは言うも更なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・その内寛永十四年嶋原征伐と相成り候故松向寺殿に御暇相願い、妙解院殿の御旗下に加わり、戦場にて一命相果たし申すべき所存のところ、御当主の御武運強く、逆徒の魁首天草四郎時貞を御討取遊ばされ、物数ならぬ某まで恩賞に預り、宿望相遂げず、余命を生延び・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・「武士は誓言をしたからは、一命をもすてる。よしや由緒があろうとも、おぬしの身に着けている物の中で、わしが望むのは大小ばかりじゃ。ぜひくれい」と言った。「いや、そうはならぬ。命ならいかにも棄ちょう。家の重宝は命にも換えられぬ」と蜂谷は言った。・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫