・・・多少書を読み思索にも耽った私には、時に研究の便宜と自由とを願わないこともなかったが、一旦かかる境遇に置かれた私には、それ以上の境遇は一場の夢としか思えなかった。然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・シェリングにおいて、その立場から絶対的インディフェレンツまたはイデンティテートとして、一旦スピノザ的になったが、更にヘーゲルに至って、その主観的卵殻を脱して論理的弁証法的実在の世界となった。世界は客観的理性の自己発展の世界となった。世界は、・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・そして一旦それが解れば、始めに見た異常の景色や事物やは、何でもない平常通りの、見慣れた詰らない物に変ってしまう。つまり一つの同じ景色を、始めに諸君は裏側から見、後には平常の習慣通り、再度正面から見たのである。このように一つの物が、視線の方角・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・その習慣がつかない中は、忌わしく煩わしいものであるが、一旦既に習慣がついた以上は、それなしに生活ができないほど、日常的必要なものになってしまう。この頃では僕にも少しその習慣がついたらしく、稀れに人と逢わない日を、寂しく思うようにさえなって来・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・すなわち人生奇異を好むの性情にして、たとい少年を徳学に養い理学に育して、あたかもこれを筐中に秘蔵するが如くせんとするも、天下、人を蔵るの筐なし、一旦の機に逢うてたちまち破裂すべきをいかんせん。而してその破裂の勢は、これを蔵むるのいよいよ堅固・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果してそう云うモーメントが有ったか、有るまい。今の文学者なざ殊に、西洋の影響を受けていきなり文学は有難いものとして・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・したがお前の心を探って見ると、一旦は軽はずみに許したが男のいう言は一度位ではあてにならぬと少し引きしめたように見えたので、こちらも意地になり、女の旱はせぬといったような顔して、疎遠になるとなく疎遠になって居たのだが、今考えりゃおれが悪かった・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 一旦、托児所を出て往来を横切ると特別な工場学校の小門があって、十五六歳の少年少女がそこを活溌に出入している。入ったところの広場で一つの組が丁度体操をやっている。十七八人の男女の工場学校の生徒が六列に並んで、一人の生徒の指揮につれて手を・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・啻に知られているばかりではない。一旦人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へ戻されて、文学者として復活している。手数の掛かった履歴である。 木村が文芸欄を読んで不公平を・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・皇室に対して忠であることは、「一旦緩急あれば義勇公に奉ずる」ことであった。対内的でなくして対外的であった。徳川時代の主従関係のように個人的なものではなく、対国家の関係であった。これだけの相違が我々父子の間に存している。その事をまず小生は前記・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫