・・・瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。「縁喜でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・即ち薬剤にて申せば女子に限りて多量に服せしむるの意味ならんなれども、扨この一段に至りて、女子の力は果して能く此多量の教訓に堪えて瞑眩することなきを得るや否や甚だ覚束なし。既に温良恭謙柔和忍辱の教に瞑眩すれば、一切万事控目になりて人生活動の機・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・の気象を養ったら、何となく人生を超絶して、一段上に出る塩梅で、苦痛にも何にも捉えられん、仏者の所謂自在天に入りはすまいかと考えた。 そこで、心理学の研究に入った。 古人は精神的に「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的に養うべきでは・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・すると宋江が潯陽江を渡る一段を思い出した。これは去年病中に『水滸伝』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろう・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・百舌はたしかに私たちを恐れたらしく、一段高く飛びあがって、それから楊を二本越えて、向うの三本目の楊を通るとき、又何かに引っぱられたように、いきなりその中に入ってしまいました。 けれどももう、私も慶次郎も、その木の中でもずが死ぬとは思いま・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
・・・その一段深まり拡った人間と自然との生存を味わせようとして、神は人間に複雑な全心的な恋愛の切な情を与えたのかと思われることさえある程です。 恋愛の真実な経験は間違いなく生活内容を増大させます。けれども、私には、恋愛生活ばかり切りはなして、・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・しかるに上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に傍輩にうとんぜられて、怏々として日を送った。 寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。霊屋のそばにはまだ妙解・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた懶惰者、不忠者の下男だ。「誰やらん見知らぬ武士が、ただ一人従者をもつれず、この家に申すことあ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
独断 芸術的効果の感得と云うものは、われわれがより個性を尊重するとき明瞭に独断的なものである。従って個性を異にするわれわれの感覚的享受もまた、各個の感性的直感の相違によりてなお一段と独断的なものである。それ故に文学上に於ける感覚・・・ 横光利一 「新感覚論」
出典:青空文庫