・・・ 余は婆さんの労に酬ゆるために婆さんの掌の上に一片の銀貨を載せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいささか明暸になったようであります。すなわち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢から醒め、現実の正しい方位を認識する。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
一 太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ ここにおいてか、人を妬み人を悪て、たがいに寸分の余地をのこさず、力ある者は力をつくし、智恵ある者は智恵をたくましゅうし、ただ一片の不平心を慰めんがために孜々として、永遠の利害はこれを放却して忘れたるが如くなるにいたる者、すくなからず。・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・にも係らず其無意味のことに意味をつけて、やれ触れたの、やれ人生の真髄は斯うだのと云う。一片の形容詞が何時の間にか人生観と早変りをするのは、これ何とも以て不思議の至りさ。 いや、何時のまにか私も大気焔を吐いて了って。先ずここらで御免を蒙ろ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・其方もある夏の夕まぐれ、黄金色に輝く空気の中に、木の葉の一片が閃き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大世界の不思議をふと我物と悟った時、其方の土塊から出来ている体が顫えた時・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・は、鴎外が人間の異常な行動のモメントとして、強烈な感銘を本人に与えた一片の恩義が猶よくその人の生命を左右する力をもっていることを、美と感じたロマンティックな創作動因に立っている。封建の思惟をロマンティックな作者の精神高揚でつつんだものであっ・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・予は実に副わざる名声を博して幸福とするものではない。予は一片誠実の心を以て学問に従事し、官事に鞅掌して居ながら、その好意と悪意とを問わず、人の我真面目を認めてくれないのを見るごとに、独り自ら悲しむことを禁ずることを得なかったのである。それ故・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・どの流派を追い、どの筆法を利用するにしても、要するに洋画家の目ざすところは、目前に横たわる現実の一片を捕えて、それを如実に描き出すことである。彼らにとって美は目前に在るものの内にひそんでいる。机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫