・・・ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光より・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ しかし、今私がかりにパリへ行ってその屋根の下を流れ渡り、辻の艶歌師を聞いたり、酒場の一隅に陣取ったりしていると想像した場合に、私の眼前に登場する人物の話している言葉が一つ一つ明確に私にわかるかどうか。私がかりにはえ抜きのパリッ子であっ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなって居るが、古井戸のある一隅は、住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり、家人からは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話・・・ 永井荷風 「狐」
・・・太十は一隅を外した蚊帳へもぐった。蚊帳の外には足が投げ出してあった。蠅が足へたかっても動かなかった。犬は蔭の湿った土に腹を冷して長くなって居た。二人は来た。三次は左の手を赤の腹へ当ててそっとあげた。後足は土について居る。赤はすっと首を低くし・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、やすりの響は絶えず中庭の一隅に聞える。ウィリアムも人に劣らじと出陣の用意はするが、時には殺伐な物音に耳を塞いで、高き角櫓に上って遙かに夜鴉の城の方を眺める事がある。霧深い国の事だから眼に遮ぎる程の物はなくて・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・何にもないようにおもっていた室の一隅に、何かの一固りがあった。それが、ビール箱の蓋か何かに支えられて、立っているように見えた。その蓋から一方へ向けてそれで蔽い切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語はついに字彙中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくのごときものあり。 蕪村は古文法など知らざりけん、よし知りたりともそれにかかわらざりけん・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ あっちこっちの隅で、本をよんだり、学校の宿題をやったりしている一隅で、わたしたちは長い間、ピオニェールたちと話しました。 みんなずいぶん日本にもピオニェールがあるかどうかということを知りたがってきいた。 学校はどんなか?「・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・鎮まり返った夜の宮殿の一隅から、薄紅の地図のような怪物が口を開けて黙々と進んで来た。「陛下、お待ちなされませ、陛下」 彼女は空虚の空間を押しつけるように両手を上げた。「陛下、暫くでございます。侍医をお呼びいたします」 ナポレ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫