・・・桜痴居士の邸は下谷茅町三丁目十六番地に在ったのだ。 当時居士は東京日日新聞の紙上に其の所謂「吾曹」の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 京橋区内では○木挽町一、二丁目辺の浅利河岸○新富町旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町旧居留地の中央を流れた溝渠。むかし見当橋のかかっていた川○八丁堀地蔵橋かかりし川、その他。 日本橋区内では○本柳橋かかりし薬研堀の溝渠・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
左の一篇は、去る一三日、東京芝区三田二丁目慶応義塾邸内演説館において、福沢先生が同塾学生に向て演説の筆記なり。 学問に志して業を卒りたらば、その身そのまま即身実業の人たるべしとは、余が毎に諸氏に勧告するところ・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・それならば港町四丁目だ。相変らず狭い町で低い家だナア。」「アラ誰だと思うたらのぼさんかな。サアお上り、お労れつろ、もう病気はそのいにようおなりたのか。」「アラおまいお戻りたか。」「マア目出とう。おばアさん相変らず御元気じゃナア。」「いい・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・へ私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助と申します、どうかお見知りおかれて御別懇に願います。まだ無礼な事申しちょるか。恐れ入りました。見受ける処がよほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難う・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・四月五日 日南万丁目へ屋根換えの手伝え(にやられた。なかなかひどかった。屋根の上にのぼっていたら南の方に学校が長々と横わっているように見えた。ぼくは何だか今日は一日あの学校の生徒でないような気がした。教科書は明日買う。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 十五 未来の仕事についての議論 十六 第三木曜会へ一緒に行く、寒い日、かえりに一〇丁目の角でお茶をのむ、始めて石原さんに会う。グルグル廻る戸から出た彼の印象、妻沼さんのダディへのインビテーションをホールできき、いそいで・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
・・・北町一丁目の馬と冗談を云う位。それが本性を発揮し私の夢の裡でまで彼那勢いで駈け出したのかと思ったら、ひとりでににやにやした。烏のことは見当がつかない。空気銃を持っている子供を、慶応のグラウンドの横できのう見た故だろうか。 穏かな、静かな・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・未の刻に佐久間町二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田霞が関の松平少将家の三家がその主なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命して・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫