・・・ その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ。 暁方の三時からゆる・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「僕は困る」と言われた。と、私は、「いえ、悪くさえいわね・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借りようと、のんきなことを考える。むろん誰が考えても無謀な考えにちがいないが、あの人はしばらくその無謀さに気がつかない。なんとかなるだろうと、ふらふらと暖簾をくぐり、そ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 別製アイスクリーム、イチゴ水、レモン水、冷やし飴、冷やしコーヒ、氷西瓜、ビイドロのおはじき、花火、水中で花の咲く造花、水鉄砲、水で書く万年筆、何でもひっつく万能水糊、猿又の紐通し、日光写真、白髪染め、奥州名物孫太郎虫、迷子札、銭亀、金・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・私は例の切抜きと手帳と万年筆くらい持ちだして、無断で下宿を出た。「とにかくまあ何も考えずに、田舎で静養してきたまえ、実際君の弱り方はひどいらしい。しかしそれもたんに健康なんかの問題でなくて、別なところ来てるのかもしれないが、しかしとにか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・大森は机に向かって電報用紙に万年筆で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草盆には埃及煙草の吸いがらがくしゃくしゃに突きこんである。 大森は名刺を受けとってお清の口上をみなまで・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・太宰様は、一年間に、原稿用紙三百枚、それも、ただ机のうえにきちんと飾って、かたわらに万年筆、いつお伺いしてみても、原稿用紙いちまいも減った様子が見えず、早川さんと無言で将棋、もしくは昼寝、私にとっては、一番わるいお客でございましたが、それで・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それに、君の亭主は、気が弱くて、街頭に出て、あの、いんちきの万年筆を、あやしげの口上でのべて売っているのだが、なにせ気の弱い、甘えっ子だから、こないだも、泉法寺の縁日で、万年筆のれいの口上、この万年筆、今回とくべつを以て皆さんに、会社の宣伝・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・数枝、万年筆を置いて、机に頬杖をつき障子をぼんやり眺め、やがて声を立てずに泣く。間。あさ、眠りながら苦しげに呻く。呻きが、つづく。お母さん、お母さん。 ああ、(と眼ざめて深い溜息ああ、お前かい。 どこか、・・・ 太宰治 「冬の花火」
出典:青空文庫