・・・やがて、万年筆を執って書きはじめた。 ――恋愛の舞踏の終ったところから、つねに、真の物語がはじまります。めでたく結ばれたところで、たいていの映画は、the end になるようでありますが、私たちの知りたいのは、さて、それからどんな生活を・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたし・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・これを、詩人が一本の万年筆と一束の紙片から傑作を作りあげ、画家が絵の具とカンバスで神品を生み出すのと比べるとかなりな相違があるのを見のがすことはできない。映画芸術の経済的社会的諸問題はここから出発するのである。 映画の成立・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手欄越しに庭の楓樹の梢を眺めていた。すると私のすぐ眼の前に突き出ている小枝に簑虫のぶら下がっているのが眼に付いた。それはこの虫と・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・自分は俳人でもないからと一応断わってみたが、たってと言われるので万年筆でいいかげんの旧作一句をしたためて帳面を返した。すると今度はふろしきの中から一冊の仮りとじの小さな句集のようなものを取り出して自分の前に置いた。手に取って見るとそれは知名・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・そんなことは夢にも考えないでむかでの足を驚嘆しながら万年筆をあやつってこんなことを書くという驚くべき動作をなんの気もなく遂行しているのである。 八 軍隊用のラッパの音は勇ましい音の標本になっているようである。なる・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ わたしは平生文学を志すものに向って西洋紙と万年筆とを用うること莫れと説くのは、廃物利用の法を知らしむる老婆心に他ならぬのである。 往時、劇場の作者部屋にあっては、始めて狂言作者の事務を見習わんとするものあれば、古参の作者は書抜の書・・・ 永井荷風 「十日の菊」
此間魯庵君に会った時、丸善の店で一日に万年筆が何本位売れるだろうと尋ねたら、魯庵君は多い時は百本位出るそうだと答えた。夫では一本の万年筆がどの位長く使えるだろうと聞いたら、此間横浜のもので、ペンはまだ可なりだが、軸が減った・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・夜の来た硝子の窓には背に燈火を負う私の姿が万年筆の金冠のみを燦然と閃かせ未生の夢に包まれたようにくろく 静かに 写って居る。 *ああ、海! 海広い懐の大海お前の際限ない胸を張れ!濤をあ・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ その変に捩くれた万年筆を持った男が、帳簿を繰り繰り、九段にこんな家があるが、どうですね、少々権利があって面倒だが、などと云っている時であった。 格子の内に、白い夏服を着、丸顔で髪の黒い一人の外国人が入って来る。 そして、貸家が・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
出典:青空文庫