・・・彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた万葉集の歌をうたい出した。「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」 僕は彼の日本語の調子に微笑しない訣には行かなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・保吉は勿論恋も知らず、万葉集の歌などと云うものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光りに煙った海の何か妙にもの悲しい神秘を感じさせたのは事実である。彼は海へ張り出した葭簾張りの茶屋の手すりにいつまでも海を眺めつづけた。海は白じろと赫いた帆・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 松はとうていこの世のものではない。万葉集に玉松という形容語があるが、真に玉松である。幹の赤い色は、てらてら光るのである。ひとかかえもある珊瑚を見るようだ。珊瑚の幹をならべ、珊瑚の枝をかわしている上に、緑青をべたべた塗りつけたようにぼっ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身が、この醜態は情ない。たとい人に見らるるの憂いがないにせよ、余儀な・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ Le jou de l'amour et de la mort.D. H. Lawrence : Sons and lovers.Andr Gide : La porte troite.万葉集、竹取物語、近松心中物、朝顔日記、・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・したがっていったん、その結合が破れたときにはその悲傷もまた深刻である。万葉集の巻の三には大津皇子が死を賜わって磐余の池にて自害されたとき、妃山辺の皇女が流涕悲泣して直ちに跡を追い、入水して殉死された有名な事蹟がのっている。また花山法皇は御年・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合もあって、骨董は誠に貴ぶべし、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・それは万葉集などよりはもっと古い昔の詩人の夢をおとずれた東方原始民の詩であり歌であったのではないかと思われるのである。そうした詩が数千年そのままに伝わって来ていたのがわずかにこの数十年の間に跡形もなく消えてしまうのではないかと疑われる。・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・少なくもわが国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりもさらにより以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。 以上はただ一人の地球物理学者の目を通して見た日本神話観に過ぎないのであ・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
・・・これに反して四季の歌少く、雑の歌の著く多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以なり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際より出づ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫