・・・私を送って行った足で上りこむなり、もう嫌味たっぷりに、――高津神社の境内にある安井稲荷は安井さんといって、お産の神さんだのに、この子の母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と因果なことか……と、わざとらしく私の生・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・髪の毛は段々と脱落ち、地体が黒い膚の色は蒼褪めて黄味さえ帯び、顔の腫脹に皮が釣れて耳の後で罅裂れ、そこに蛆が蠢き、脚は水腫に脹上り、脚絆の合目からぶよぶよの肉が大きく食出し、全身むくみ上って宛然小牛のよう。今日一日太陽に晒されたら、これがま・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 彼は帳場に上り込んで「実は妻が田舎に病人が出来て帰ってるもんだから、二三日置いて貰いたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の様子の尋常で無さそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いてるだろうのに、空間が無いと云ってきっぱりと断った。併しもう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と引受けて立上りましたが、直ぐ台所へ廻って如何したらよいかと私に相談します。私は引受けた以上は病人のために医師を探してやるのが当然でもあり、またこれが最後となっては心残りだからと言って、弟を出してやりました。 陰うつな暫時が過ぎてゆきま・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ いつものように、彼は木登りをしようとする。――できない。人の裾を目がけて跳びかかる。――異う。爪を研ごうとする。――なんにもない。おそらく彼はこんなことを何度もやってみるにちがいない。そのたびにだんだん今の自分が昔の自分と異うことに気・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・草苅りの子の一人二人、心豊かに馬を歩ませて、節面白く唄い連れたるが、今しも端山の裾を登り行きぬ。 荻の湖の波はいと静かなり。嵐の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・てと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀の波をかき分け陸へと游ぐをちょっと見やりしのみ、途をかえて堤へ上り左右に繁る萱の間を足ばやに八幡宮の方・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よし無き心おもひ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・彼は、丘を登りしなに、必ず、パンか、乾麺麭か、砂糖かを新聞紙に包んで持っていた。それは兵卒に配給すべきものの一部をこっそり取っておいたものだった。彼は、それを持って丘を登り、そして丘を向うへ下った。 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ ○ 顔も大きいが身体も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚上髭頬髯を無遠慮に生やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚にまださほどは居ぬ蚊を吾家から・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫