・・・そのなかで、男妾のようなことをやっているものがあったそうだとか、闇の女をやっているものがあるというがとか、愉快な笑話ででもあるように老先輩が上機嫌で云っていた。大変丁寧な、身分のちがいをあらわした言葉で対手をしている幾人もの学生のうち、一人・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・ 筒抜けに上機嫌な一太の声を、母親はぎょっとしたようなひそひそ声で、「そうかい、そりゃお手柄だ」といそいで揉み消した。「さあもう一っ稼ぎだ」 また風呂敷包を両手に下げた引かけ帯の見窄しい母親と並んで、一太は一層商売を心得・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ Yは網野さんの褒め言葉に上機嫌であった。「いいんですよ。なかなか――こんな工事さえしていなけりゃ」 丁度座敷の正面の河中に地下鉄道の工事で出る泥を運搬する棧橋がかかっているのであった。そこへ人が立って時々此方の座敷を見る。・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・これだけの人数が、みんな一ヵ月世帯主三〇〇円、家族数一人につき一〇〇円ずつの預金をどこからか下げて、あらゆる三倍ずつの生計費をまかなって暮し、花見をして、上機嫌で平和の春がうたえるものだと、かりそめにも思うものは無い。 労働法が出来たけ・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
・・・皆、酒気を帯び、上機嫌だ。主賓、いかにも程々に取巻かせて置くという態度。一寸離れて、空色裾模様の褄をとった芸者、二三人ずつかたまって伴をする。――芝居の園遊会じみた場面を作って通り過た。 写真をとるという時、前列に踞んだ芸者が、裾を泥に・・・ 宮本百合子 「百花園」
・・・ 牧子は数年このかた埼玉の町に住んでいて、滅多に会うことも出来なかった。「思いがけないところから現れたのねえ」「よかったわ、うまくつかまえられて」 上機嫌で牧子は男の児に、「純ちゃん、これがおまくのおばちゃんよ、覚えてい・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・其処へ六時頃、父上が、外気の寒さで赤らんだ顔を上機嫌にくずし乍ら、「どうですね、仕度は出来ましたか」と、何か紙包を持って帰宅されるだろう。 私や父は、いつも、家中の者に、何か一つずつ、気に入りそうな贈物を買い調えた。自分は早くか・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・帰りかける多喜子を送って玄関へ出て来た幸治夫婦が、計らずものの拍子でくっつき合った互の肩をそのまま並べ、上機嫌で、「さようなら」「じゃまた、御ゆっくりね」と晴々した声を揃え、多喜子に向って手をふって別れを告げた彼等のもつれあった・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
・・・ 父はいかにも上機嫌な歓迎の表情で顔をあげた。「ゆっくりしといで」「きょう、来て下すったんだって?」 朝のうち出かけて帰って来たら、生垣の向うから隣りの奥さんが声をかけて、お父様がいらしったようでしたよ、頻りに百合子、百合子・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・長安で北支那の土埃をかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになったので、上機嫌である。それにこの三日の間に、多人数の下役が来て謁見をする。受持ち受持ちの事務を形式的に報告する。そのあわただし・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫