・・・働けば財産はできるものだ、いったん縁あって嫁いったものを、ただ財産がないという一か条だけで離縁はできない、そういう不人情な了簡ではならぬといわれて、おとよさんはいやいや帰ってきた。父の言うとおり財産のないだけで、清六が今少し男子らしければ、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・平常、かわいがっていながら、ペスが、犬殺しに、つれられていったと知っても、もらいにいってやらぬというのは、なんたる不人情なことだろう。ペスは、心のうちできっとだれかもらいにきてくださると思っていたのにちがいない、そして、とうとうだれもきてく・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・わが魚容君もまた、君子の道に志している高邁の書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆わず、ひたすら古書に親しみ、閑雅の清趣を養っていたが、それでも、さすがに身辺の者から受ける蔑視には堪えかねる事があって、それから三年目・・・ 太宰治 「竹青」
・・・昔からあの家は、お仲人の振れ込みほどのことも無く、ケチくさいというのか、不人情というのか、わたくしどもの考えとは、まるで違った考えをお持ちのようで、あのひとがこちらへ来てからまる八年間、一枚の着換えも、一銭の小遣いもあのひとに送って来た事が・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・よろしい、それならば、と僕たちはこの不人情のおでんやに対して、或る種の悪計をたくらんだのだった。 まず僕が、或る日の午後、まだおでんやが店をあけていない時に、その店の裏口から真面目くさってはいって行った。「おじさん、いるかい。」と僕・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・ そんな不人情な立場に立って人を動かす事ができるかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書か・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ ボースンは、からかわれていると思って、遂々憤り出してしまった。「酔っ払ったって死ぬことがあるじゃないか! ボースン! 安田だって仲間だぜ! 不人情なことを云うと承知しねえぞ、ボースン、ボースンと立てときゃ、いやに親方振りやがって、そん・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・不義理不人情、恩を知らざる人非人なれども、世間に之を咎むるものなきこそ奇怪なれ。左れば広き世の中には随分悪婦人も少なからず、其挙動を見聞して厭う可き者あれども、男性女性相互に比較したらんには、人非人は必ず男子の方に多数なる可し。此辺より見れ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・主人の貪欲不人情、竈の下の灰までも乃公の物なりと絶叫して傍若無人ならんには、如何に従順なる婦人も思案に余ることある可し。此時に当り婦人の身に附きたる資力は自から強うするの便りにして、徐々に謀を為すこと易し。仮令い斯くまでの極端に至らざるも、・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫