・・・この不安は、あのハンチングをかぶった学生のボルに話してもわからない。三吉がみたボルは、まだ学生ばかりであったが、三吉が背後にひいている生活、怪我してねている父親、たくさんのきょうだい、鼻のひくい嫁をすすめる母親、そんなことは説明しようがない・・・ 徳永直 「白い道」
・・・であるとの噂が専らとなったので、江戸の町人は鳥さしの姿を見れば必不安の思をなしたというはなしである。わたくしが折々小石川の門巷を徘徊する鳥さしの姿を目にした時は、明治の世も既に十四五年を過ぎてはいたが、人は猶既往の風聞を説いて之を恐れ厭って・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・然し彼の意識しない愛惜と不安とが対手に愁訴するように其声を顫わせた。殺すなといえばすぐ心が落ち付いて唯其犬が不便になったのである。然し対手は太十の心には無頓着である。「おっつあん殺すのか」 斯ういう不謹慎ないいようは余計に太十を惑わ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・その時ふとこの顔とこの様子から、自分の住む現在の社会が成立しているのだという考がどこからか出て来て急に不安になるのです。そうして早々自分の穴へ帰りたくなるんです。 そのときはまだ好いが、次にきっと自分も人から見れば、やっぱり浮いた顔をし・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 小林の子が、小さな心臓を何物とも知れぬ不安に締めつけられながら言った。 二つの小さな姿が、川岸伝いに、川上の捲上小屋に駆けて行くのが、吹雪の灰色の夕闇の中に、影絵のように見えた。 二人の子供たちは、今まで、方々の仕事場で、幾つ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・一 婦人は家を治めて内の経済を預り、云わば出るを為すのみにして入るを知らざる者の如くなれども、左りとては甚だ不安心なり。夫とて万歳の身に非ず、老少より言えば夫こそ先きに世を去る可き順なれば、若し万一も早く夫に別れて、多勢の子供を始め家事・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・かくてようように眠りがはっきりと覚めたので、十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・この間から、わたくしはたびたびこういう不安をききました。やっと家のものを説得して専門学校は出たけれども、出てから先の生活を考えると、何ともいえない心持がして来る、だって、その先にある生活は、もう大体わかっているんですもの、と。そういう述懐を・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・だんだん不安心になって来た。なぜ『大泥棒』とかれを呼んだのだろう。 シュールダンの酒店の卓に座して、かれはまたもや事の一部始終を説きはじめた。 するとモンチヴィエーの馬商がかれに向かって怒鳴った、『よしてくれ、よしてくれ古狸、手・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫