・・・――私あんな教養のない人と一緒になって、ほんまに不幸な女でしょう? そやから、お習字やお花をして、慰めるより仕方あれしません。ところが、あの人はお習字やお花の趣味はちょっともあれしませんの」「お茶は成さるんですか」「恥かしいですけど・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責め・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・るさにも暗さにも徹しえない自分のような人間――自分は酔いが廻ってくるにしたがって、涙ぐましいような気持にさえなってきて、自分の現在の生活を出るというためからも、こうした怪しげな文筆など棄てて、ああした不幸な青年たちに直接に、自分として持って・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 三 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐っていた。勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・僕は母に交って此方に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交る/″\介抱して、二人の不幸をば一人で正直に解釈し、たゞ/\怨霊の業とのみ信じて、二人の胸の中の真の苦悩を全然知らないのです。 僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ それに夫婦生活には必ず、倦怠期があるし、境遇上に不幸が襲うし、相手にそれほどでもなかったという期待はずれが生じるものだ。そういうとき、本当に愛し合ったいろいろの思い出は愛を暖め直すし、またあきらめがつく。あれだけ愛したのだものをと思わ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・その規約によると、誠心誠意主人のために働いた者には、解雇又は退隠の際、或は不時の不幸、特に必要な場合に限り元利金を返還するが、若し不正、不穏の行為其他により解雇する時には、返還せずというような箇条があった。たいてい、どこにでも主人が勝手にそ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・お浪の家は村で指折の財産よしであるが、不幸に家族が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使も居れば傭の男女も出入りするから朝夕などは賑かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂である・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 不幸、短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君のごとく、餓しても伯夷や杜少陵のごとく、凍死しても深草少将のごとく、溺死しても佐久間艇長のごとく、焚死しても快川国師のごとく、震死しても藤田東湖のごとくであれば、不自然の死も、かえって・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・あの早川賢が横死を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。またかと思うような号外売りがこの町の界隈へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行く・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫