・・・ 頑固親爺が不幸むすこを折檻するときでも、こらえこらえた怒りを動作に移してなぐりつける瞬間に不覚の涙をぽろぽろとこぼすのである。これにはもちろん子を哀れみまた自分を哀れむ複雑な心理が伴なってはいるが、しかしともかくもそうした直接行動によ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・それに気が附かないで独悟ったつもりになって後輩を軽蔑して居ると思わぬ不覚を取る事がないとも限らぬ。現にその選句を見ても時として極めて幼稚なる句あるいは時として月並調に近い句でさえも取ってある事がある。今少し進歩的研究的の精神が必要である。・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ところが不覚にも、その棧橋の陸につないであるところに私と栄さんと合計三十何貫の重みがずっしりとかかっていることに心付かず、私が「十二貫じゃ無理よ、こっちはこの通りなんだからね、」と云ったのでナアーンダとあきらめ、いねちゃん、大笑い、帰りに盲・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・カラ 今日おくれたりしては、一期の不覚です。この吉日をとり逃したら又何時ふんだんな人間の涙と呻きが私の喉に流れ込むかしれたものではない。一面濛々とした雲の海。凄じい風に押されて、彼方に一団此方に一団とかたまった電光を含む叢雲・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙もろい同心が宰領してゆくことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で不快な職務としてきらわれていた。 ・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫