・・・ 丘の中ほどのある農家の前に、一台の橇が乗り捨てられていた。客間と食堂とを兼ねている部屋からは、いかにも下手でぞんざいな日本人のロシア語がもれて来た。「寒いね、……お前さん、這入ってらっしゃい。」 入口の扉が開いて、踵の低い靴を・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・岸にボートが一つ乗り捨てられてあった。「乗ろう!」勝治は、わめいた。てれかくしに似ていた。「先生、乗ろう!」「ごめんだ。」有原は、沈んだ声で断った。「ようし、それでは拙者がひとりで。」と言いながら危い足どりでその舟に乗り込み、「・・・ 太宰治 「花火」
・・・――乗り捨てし馬も恩に嘶かん。一夜の宿の情け深きに酬いまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍に姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳せる時何事とは知らず、岩の凹みの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るま・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫