メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・すべて、みな、この憂さに沈むことの害毒を人一倍知れる心弱くやさしき者の自衛手段と解して大過なかるべし。われ、事に於いて後悔せず、との菊池氏の金看板の楯の弱さにも、ふと気づいて、地上の王者へ、無言で一杯のミルクささげてやって呉れる決意ついたら・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・細工の大きい男は、それだけ、人一倍の修業が必要のようである。自分では、人生の片隅に、つつましく控えているつもりなのに、人は、なかなかそれを認めてくれない。やけくそで、いっそ林銑十郎閣下のような大鬚を生やしてみようかとさえ思う事もあるのだが、・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫、井伏鱒二、中谷孝雄、いまさら出家遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。おのれの作品のよしあしをひ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶はおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、亮はどんなに気らくであったろう。 こういう不安と煩悶をいだきつつ、学校・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ 若い人の心は悶えるのも人一倍くるしみのますものじゃ。火の様になった若人の頭に額に一寸手を置いて御やりなされ、さもなくば髪の毛の上にかるい娘らしい接吻をなげて御やりなされ。第二の精霊 して御やりなされ、悪い大神の御とがめをうくるほど・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 極く明けっ放しな、こだわりのない生活をして居られる私共は、はたのしねくねした暮し振りを人一倍不快に感じるので、どうしても裏の家を快活ないい気持なと思う事が出来なかった。 何より彼より、一番大まかで、寛容でなければならない筈の主人が・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
出典:青空文庫