・・・そして、わたくしは今やまさに父が逝かれた時の年齢に達せむとしている。わたくしはこの時に当って、わたくしの身に猫のような陰忍な児のないことを思えば、父の生涯に比して遥に多幸であるとしか思えない。もしもわたくしに児があって、それが検事となり警官・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・に先駆の困難を勘定に入れないにしたところでわずかその半に足らぬ歳月で明々地に通過し了るとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果とし・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視せられていた、各自の世界史的使命を奪われていた。今や東亜の諸民族は東亜民族の世界史的使命を自覚し、各自自己を越えて一つの特殊的世界を構成し、以て東亜民族の世界史的使・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
発電所の掘鑿は進んだ。今はもう水面下五十尺に及んだ。 三台のポムプは、昼夜間断なくモーターを焼く程働き続けていた。 掘鑿の坑夫は、今や昼夜兼行であった。 午前五時、午前九時、正午十二時、午後三時、午後六時には取・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりのはずの、あのはしかをやんだ子が、まるっきりやせて青ざめて、泣きだしそうな顔をして、新しい熊のおもちゃを持って、きちんとすわっていたのです。「ざしきぼっこだ」一人が叫んでにげだしました。みんなも・・・ 宮沢賢治 「ざしき童子のはなし」
・・・ これまで永い間、重い歴史の蓋をかぶせられて、日本の老いも若きも、何と暗い無智におかれ、理非をいわせぬ犠牲となって一生を過して来たことでしょう。 今やわたくしたちは元気よく立ち上ったその肩の力で、人間生活を圧し殺して来た圧迫を徹底的・・・ 宮本百合子 「明日を創る」
・・・誓いの文句などは人のいない時十分考えて用意しているのである。今やかれの心は全く糸の話で充たされてしまった。かれの弁解がいよいよ完全になるだけ、かれの談論がいよいようまくなるだけ、ますますかれは信じられなくなった。『みんな嘘言家の証拠さ』・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・えいの事をわたくしの問うたこの翁媼は今や亡き人である。先日わたくしは第一高等学校の北裏を歩いて、ふと樒屋の店の鎖されているのに気が付いたので、近隣の古本屋をおとずれて、翁媼の消息を聞いた。翁は四月頃に先ず死し、まだ百箇日の過ぎぬ間に、媼も踵・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・ われわれの討論は、今や一斉にここに向けられなければならぬ。 コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。 しかしながら、文学に対して、・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・の出来事であり、嘉吉の土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰は、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが、彼にとってはそれはただ悲しむべき秩序の破壊にすぎなかったであろう。今やその民衆の力が、軍隊の主要部を形成す・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫