・・・明日の今時分までにゃ、きっと君にも知らせられるだろうと思うから。――まあ、そんなに急がないで、大船に乗った気で待っているさ。果報は寝て待てって云うじゃないか。」と、冗談まじりに答えました。するとその声がまだ終らない内に、もう一つのぼやけた声・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」 すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほと・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産で、お浜といえば砂さえ、敷妙の一粒種。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。 犬張子が横に寝て、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・けれども、今時分、扇子は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古の帰途なら、相応したのがあろうものを、初手から素性のおかしいのが、これで愈々不思議になった。 が、それもその筈、あとで身上を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品、と云うのであった・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・「すぐ起きますもねいもんだ。今時分までねてるもんがどこにある。困ったもんだな。そんなことでどこさ婿にいったって勤まりゃしねいや」「また始まった。婿にいけば、婿にいった気にならあね」「よけいな返答をこくわ」 つけつけと小言を言・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 何を咄したか忘れてしまったが、今でも頭脳に固く印しているのは、その時卓子の上に読半しの書籍が開いたまま置かれてあったのを何であると訊くと、二葉亭は極めて面羞げな顔をして、「誠にお恥かしい事で、今時分漸と『種原論』を読んでるような始末で・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・何心なく眼が覚めて、一寸寝返りをして横を見ると、呀と吃驚した、自分の直ぐ枕許に、痩躯な膝を台洋燈の傍に出して、黙って座ってる女が居る、鼠地の縞物のお召縮緬の着物の色合摸様まで歴々と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところへ女の来る道理がない・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・――僕はこの頃今時分になると情けなくなるんだ。空が奇麗だろう。それにこっちの気持が弾まないと来ている」「呑気なことを言ってるな。さようなら」 行一は毛糸の首巻に顎を埋めて大槻に別れた。 電車の窓からは美しい木洩れ陽が見えた。夕焼・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・自分はその一二を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順や威海衛で大へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴らの万歳を祝してやろうではないかと言うとそれはおもしろいと、チャン万歳チャンチャン万歳など思い思いに叫ぶ、その意気は彼らの眼中すでに旅順・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・だけど今時分の夕立なんて、よっぽど気まぐれだ。」と亭主が言った。 二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光は赤くかすかに、陰は暗くあまねくこのすすけた土間をこ・・・ 国木田独歩 「窮死」
出典:青空文庫